「青野くんに触りたいから死にたい」と読者を巻き込む呪い関連

ピエール手塚

 「青野くんに触りたいから死にたい」が完結し、最終巻が出ました。
 「青野くんに触りたいから死にたい」は、主人公の優里さんが、亡くなってしまった恋人である青野くんに、また会いたいから自分も死のうとするところに、その自殺を止めようとした幽霊の青野くんが戻ってくるお話です。

 本作は、一風変わったコメディのようにして始まりますが、幽霊となって舞い戻った青野くんの背後にある、土地に伝わる伝承や呪いの解明や、2人が抱えていた家庭の事情の話など、第一話で読者が想像したものを遙かに超えるような展開を見せ、そして第一話を引き継ぐような形で物語は綺麗に終わります。

 僕がこのお話を何のお話だと思ったかというと、自他境界のお話です。人と人の間で自他境界が曖昧になってしまうことであったり、そんな風に曖昧になってしまう自他境界をどう取り扱うべきかという話をしていたように思いました。

 本作を読み進める上で最初に引っかかったのは、一見おとなしくて優しい女の子である優里さんが見せる価値判断の違和感です。彼女はまるで、自分自身を粗末に扱ってもいいものであるかのように思っているような振る舞いをします。
 死んだ恋人にまた会いたいから、触りたいから、死にたいというのは、自分の命に価値を感じていない行動です。彼女は、悪霊と化していく青野くんを救うために様々なものを事も無げに提供しようとしますが、その様子は、この子は自分自身に価値がないと思っているのではないか?と思わせました。

 それは中盤に事実であると分かります。彼女は姉から虐待を受けて育っていて、両親はそれを止めようともしていませんでした。おかしな家庭です。でも、彼女はそれをおかしいと気づく隙を与えられず、内面化して生きてしまっていたように見えました。
 つまり、それが自他境界の話です。他人に扱われる自分を、自分自身と区別することができなくなり、価値がないと扱われてきたせいで、「自分に価値がないのは当たり前」と思うようになっていたのではないでしょうか?

 僕は人間と人間がコミュニケーションをとることを、時計と時計の時刻合わせのように捉えています。
 例えば、知識であったり常識であったりは、一人でいると世の中とズレてきたりすることがあると思います。時刻合わせをせずに放置された時計のようにです。なので、色んな人と話すことで、相手の持っている知識や常識と照らし合わせ、自分の適切な時刻を見つけ出せると、世の中でやっていきやすいと思っています。人は人と接することで平均化されていきます。
 これは情報の側面だけではなく、感情面でも同じではないかと考えています。人と話していると、自分の感情と話し相手の感情が一致してくることを感じたりもするんですよね。

 ある人の悲しい気持ちや怒る気持ちなどが、一緒にいることで伝播し、同じような気持ちになる機能が人間にはあるように思います。

 つまり、人と人が接すると自然と自他境界は曖昧になっていくものではないかと思います。でも、実際は同じ人間ではないので、その境界をはっきりさせないといけないこともあります。この漫画では人間のこのような性質を描いているように思いました。

 身近な他人から、その人と同じ気持ちになることを強いられて来た子供たちが、そこを抜け出して、自分の気持ちを語ることができるようになるまでの物語です。

 本作で象徴的に使われているのは憑依の表現です。優里さんは青野くんを受け入れる許可を出し、それによって優里さんからは何かが失われていきます。優里さんは前述のように自己評価が低く、差し出すことを内面化し過ぎているので、それを差し出せてしまう。でもそれは、悲劇に繋がっていきます。
 つまり、他人に差し出すことを許可することによって自分が減ってしまいます。そのうちに、自分とは何かが分からなくなってしまうかもしれません。

 この物語の大きな注目ポイントは、青野くんのお母さんのお話だと思います。青野くんのお母さんは、自分に何かを強いてくる他人を拒むことが難しく、他人と一緒にいると、その人たちにどんどん侵食されてしまうような人間です。他人と接してしまうと自分が自分でいることが難しくなるタイプの人間です。そんなに珍しいことではありません。別に異常者というわけでもない、よくある話だと思います。
 彼女の置かれた状況の不幸は、夫の死によって自分の心の安らぐ場所がなくなってしまったことだと思います。

 彼女の目には自分の産んだ子供すら、自分を侵食してくる対象に見えていたのだと思います。自分が削られないためには、自分に合わせて相手の方が削られないといけません。閉ざされた家の中で、親という立場は権力です。彼女はその権力を使い、青野くんと青野くんの弟を削って支配しました。
 つまり、自分が傷つけられた方法で自分の子供を傷つける振る舞いをするようになり、不幸の再生産をしてしまいます。

 それによって青野くんもまた、傷ついた人に合わせて自分を削っていくことを当たり前のようにしてしまう人間に育ってしまいました。

 青野くんと優里さんの境遇は似ています。他人と接するときに自分が削られることに耐えられない人間が、自分が勝てる相手に対して同じことをしてしまうという矛先を向けられた被害者です。
 子供の頃からその中で生きてきた2人は、自分の人生を自分で選ぶよりも、周りに合わせた形に自分を削り込むことを当たり前のこととして生きてきました。

 その姿は外形的には優しいと見えるかもしれません。そこには本当に優しさもあるかもしれません。でも、同時に、本当の自分が何であったかを忘れ、他人に自分の正解を決められてしまい、それを受け入れるしかできなくなっているという苦しみの中にもいるはずです。

 この物語、超常的な出来事が巻き起こるお話です。しかし、青野くんのお母さんのエピソードは、それを優里さんが追体験しているということ以外は何の超常的なことも起きてはいません。現実にあり得る話をしています。でも、それが、青野くんと優里さんの身に巻き起こった呪いの現象と実は同じ構造をしていることが分かります。他人と接する場所で自分と他人を切り分けることができなくなる人たちが、不幸になってしまう構造です。

 この青野くんのお母さんのエピソードを読んだときに、この物語は、このエピソードを描けるようにするための構造になっていると思いました。つまり、この、何も超常的な不思議なことはなく、救いもなく、人間の見せる不条理さとその背後に浮き上がる苦しみの話は、読んでいて不快感とやるせなさを感じるもので、単体で見ると、読みたくなるお話として成立しにくいものではないかと思います。しかし、これを作中に出てくる、「四ツ首様」の呪いの様式のように、「青野くんに触りたいから死にたい」という名前の呪いの様式を用意することによって、読むべきものとして、そこにいる人間の物語として読ませてくるものになっているように感じました。
 人間のこの側面は現実にある話で、でもそのお話を単体で売り物のお話として成立させることは難しく、しかしながら、この十四巻に渡る大きな物語の構造を用意することによって成立させられたものであるように思います。

 この物語は、読者を巻き込む形の怪異として成立しているように思います。呪いの様式を用意して、その中で、その様式がなければ成立しない体験をさせられます。そして、前述の憑依による自他境界の曖昧さは、漫画の登場人物の中だけでなく、読者にも当てはまります。なぜなら、読者は読み進めるにつれて登場人物たちと同じ感情に引きずられるということにもなっていると思うからです。読者は登場人物に憑依し、同じ体験をして、同じ気持ちになります。

 本作は、青野くんがお母さんに強いられたある種の憑依を拒絶するまでの物語です。そして、優里さんが、姉の精神的憑依を拒絶し、憑依体質の自分とも決別し、「会いたいから死にたい自分」から「この先も生きる自分」を前提とした言葉に繋がる形の変化によって幕を閉じます。
 彼女は最後部屋を出ていきます。読者はその様子を見送ります。それは、登場人物に憑依していた読者を置いていく結末と捉えることができるかもしれません。

 人間は誰かと相対すると、その境界が曖昧になり、そこには喜びもあると思いますが、苦しみもあり、そこに飲み込まれないためには、必要に応じて境界を引けなければなりません。青野くんは境界を作り、優里さんも境界を作り、そして最後は読者と登場人物たちとの境界が作られました。
 読者は、「青野くんに触りたいから死にたい」という物語に登場人物たちと同じように呪われ、それが向こうから強制的に解かれるまでの体験がそこにあるように思います。それによって、登場人物である彼ら彼女らと読者である自分は異なる心を持ちますが、同じ気持ちになることがあることも理解し、境界を引くことを意識させられます。
 そういうことを描いている物語であると思いました。

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