人間は、当たり前にあるものにはなかなか気づけません。当たり前にあるがゆえに意識の外にあるものになりがちです。そのため、それに気づけるタイミングは、その当たり前にあったものがなくなったときになります。
息が出来ることのありがたさに気づけるのは、息が出来ない水中かもしれません。トイレがあることのありがたさに気づくのは、トイレなんてない山の中かもしれません。であるならば、人間が人間であることのありがたさに気づくのは、人間でないものと接したときであるかもしれません。
「寄生獣」は、人間の頭に寄生して成り代わり、高度な知能を持ちながらも人間を食う寄生生物(以下、パラサイト)を巡る物語です。この物語が何を描いた物語であったかというと、「人間ではないものを描くことによって、人間を描いている」のではないかと僕は思っています。


パラサイトが生物の頭を奪うとき、そこにはひとつの命令が下ります。それは「この種を食い殺せ」という命令です。パラサイトは、その生物的本能に従い、自分が首から下の肉体を奪った種(主に人間)を食い殺すために活動します。
主人公、泉新一は、右手にパラサイトを宿した人間です。右手に寄生したパラサイトのミギーは、頭を奪うことに失敗したために、「この種を食い殺せ」という命令を受けていません。ミギーは新一の身体から栄養を貰って生きています。その高度な知能と自在な変形能力によって人間社会に溶け込んでいるその他のパラサイトたちは、新一の周辺で様々な事件を巻き起こします。
パラサイトには人間のような感情がありません。彼らは受け取った命令の完遂と、生存のための合理的な手段を取り続けます。誰から学ぶわけでもなく、彼らは自分たちのすべきことを知っています。擬態し、生存し、人間を食うこと。その行動は、人間社会からすれば正体不明の犯人によるミンチ殺人と解釈されます。
生存本能に従って生きているパラサイトにも学ぶものはあります。それは「人間のこと」です。安全に人間を食うためには、人間社会に上手く溶け込む必要があります。人間社会に溶け込むためには人間について詳しくなければなりません。
そのような環境の中で、多くのパラサイトは、食べた人間とは同じ顔をしながらも、別の存在として生きることを選択します。社会の雑踏の中に、どこの誰でもない人として溶け込む形で。それは、そうすることが簡単な方法だからでしょう。しかし、乗っ取った人間の名前と立場をそのまま継承して生きるという、高度な知性を持った個体も存在しました。それが田宮良子(後に田村玲子と改名)です。
彼女は田宮良子の教師という立場を継承し、新一の通う高校に赴任してきます。田村玲子は、高度な知性を持つために、自分たちパラサイトの存在についての思索と探究を行います。子供を妊娠するのはその方法のひとつです。同じくパラサイトのA(という名前。パラサイトは名前に無頓着)とセックスをすることで、田村玲子は妊娠しました。その子供は、脳をパラサイトに乗っ取られているとはいえ、人間の肉体と人間の肉体の間に生まれた子供で、何の変哲もない人間の子供です。
つまり、パラサイトには繁殖能力がありません。繁殖をしないのならば彼らは何のために生まれてきたのか?この種を食い殺せという命令を達成するだけで、いずれ死ぬときまでただ生存を続けていくことに何の意味があるのか?産んだ子供を育てながら、田村玲子は、その答えを見つけるための研究を続けていきます。
最初に書いたことをもう少し詳しく言うと、僕は寄生獣の物語は、「人間がなぜ今のように生きているのかの謎を解き明かすような物語」ではないかと思います。作中でそれを示す役割を担っているのが田村玲子とミギーです。田村玲子とミギーはそれぞれ、パラサイトであるにもかかわらず、いわゆる「人間性」のようなものを獲得していきます。
それは、「人間ではない生物が人間のような心に目覚めた」ということと解釈することもできますし、「パラサイトの合理性の帰結として人間性に至った」と解釈することもできると思います。
物語の中で、田村玲子は自らの命よりも子供を守ることを優先し、ミギーは自分の命を捨ててでも新一を生かすことを望みます。それは、それまでのパラサイトに見られた、「自身の生存を最優先にする」という価値観に反しています。この2人が他のパラサイトとどこが異なったかというと、それは「赤ちゃん」と「新一」という人間と日々接し続けたということではないでしょうか?
つまり、「ある人間と共生関係になった」ということです。彼らの行動は、その関係する人間を先に繋げていくことを、自身の生存よりも優先することとなったと捉えることができます。
一方で、この物語では、寄生された後の新一が人間性を失っていくことが対比的に描かれます。数々のパラサイトの事件を経て、新一は、物事を冷静に捉え合理的に考えることが上手くなり、その思考回路はパラサイトに似通ってきていることが指摘されます。そんな新一が、失ったかと思われた人間性を取り戻し、時と場所を同じくして、田村玲子が人間性のようなものを獲得した場面が、この物語における一つのクライマックスだと思います。
寄生獣の話をするとき、田村玲子が警察の銃弾の雨の中を自分の子供を守り、その子を新一に手渡す場面、その瞬間に新一をずっと悩ませてきた胸の穴が埋まる場面は、感動的な場面であると読者の多くが感じていると思います。
しかしながら、この場面において「胸の穴」とは何であったのか?そしてそれがなぜ田村玲子とのやり取りで埋まったのかを尋ねてみると、人によってその答えがまちまちなのが面白いと、感じてきました。
それぞれの読者はそれぞれ色んなことを思いながらこの場面を読み、そしてここを感動的であると捉えつつも、それぞれが思っていることは違っていたというのは面白い話だと思います。
では、僕がこの場面を何だと思ったかという話をします。この場面は、前述のように「人間にとって人間性とは何か?」という話をしているのだと思います。新一は、生まれながらに当たり前に持っていたはずの人間性を手放したあと、それまで当たり前に最初から持っていたがゆえに、再び人間性を獲得する方法が分からなくなっていたという迷路に入っていました。そこを抜け出すきっかけが田村玲子であったのだと思います。
ではなぜ、それが田村玲子によって人間性を取り戻せたのでしょうか?そもそも新一が人間性を失っていくきっかけは、自分の母親を殺し、その首から下を乗っ取ったパラサイトによって、胸を貫かれて死にかけたことがきっかけです。その物理的に空いた胸の穴は、ミギーの命がけの行動により修復されましたが、その修復過程でミギーの一部が新一の体内に散り散りになってしまいました。そして、そのパラサイトの細胞の力により、その後の新一は超人的な能力を発揮するようになりました。
それが新一の心に影響を与えた部分はあるかもしれません。しかし、それ以上に影響があったのは、母親(の顔をしたパラサイト)に殺されそうになり、そして、母親の首から下を持つパラサイトを殺そうとした(ただし、実際に殺したのは別のパラサイト)という経験なのではないかと思います。
田村玲子は「人間は単体で存在するのではなく、集団として集まって一つの生物である」と語ります。そうであることを人間は自分の脳以外に、「もう一つの巨大な脳」を持っていると表現します。つまり、新一が切り離されたのは、その巨大な脳からではないかと思います。
それは、パラサイトと混ざりあったことで人間と自分が生物として人間と言い切っていいかどうか分からない狭間の存在となってしまったことと同時に、自分は人間から生まれた人間であるという認識を、母親から殺されるという経験によって失ってしまったことが関係しているのではないでしょうか?
自分は人間であることは人間の親から生まれたことで証明できます。その親から子への連綿とした繋がりが、人間という集団への帰属の切符になるはずです。であるならば、その繋がりであるはずの母親と殺し殺されるという経験によって、その権利を失ってしまったと感じてしまうかもしれません。
新一は、あれは母親ではないと論理的には認識していたはずです。しかしながら、その顔が変形して崩れる際には目を閉じてしまったり、とどめを刺すことができずに躊躇したりなど、新一の認識の中で、あれが母親であったのか母親ではなかったかについて迷いがあったように思います。
母親の敵討ちを終えたあと、新一は交通事故にあった犬を看取り、その死体をゴミ箱に捨てるという行動をとります。その行動を彼女に批判されたとき、新一は「死んだイヌはイヌじゃない、イヌの形をした肉だ」と言いました。これは新一が人間性を失っているということを示す場面かもしれません、しかし、その前段の母親の死を思い返すと違う捉え方もできると思います。
つまり、「首から上を乗っ取られた母親は、本当に母親ではなかったのか?」という疑問です。パラサイトに頭を乗っ取られたとはいえ、その身体は栄養をとり、血液を循環させ、ずっと生きていたと捉えることもできるからです。つまりそれは、脳死してしまった人間の生命維持を止めることと似通っているかもしれません。母親はもう生きていないかもしれない、でも、その首から下はまだ血が通って生きている、それを自分の意志で止めてしまうということは罪ではないのか?という疑問が出てくると思います。それは、母親が自分のために負った火傷のあとがその肉体に刻まれていることによってくっきりとします。あれは、自分を助けてくれた母親の身体です。
「あれは母親だったのか、母親の形をした肉だったのか?」、その違いは大きいでしょう。母親であったのなら、母に殺され母を殺し、自分がもはや人間ではないということが確定して、巨大な脳から切り離されるかもしれませんが、あれが母の形をした肉であったのなら、新一はかろうじて繋ぎとめられるかもしれません。あの言葉は、その境界にいた新一の、悲鳴のようなものであったと捉えることもできるはずです。
新一の胸の穴の話はその後何度か出てきますが、例えば、子供を叩こうとする母親の姿に反応するなど、そこには「母と子」という存在があります。そして、それは田村玲子によって埋まります。その理由は、田村玲子が、子に対して母親のふるまいをしたからだと思います。生物として遺伝的な繋がりがあるわけでもない子供を、リスクをとってまで助け、銃弾の雨の中で自分の肉体を守ることよりも子供を守ることを優先する姿は、子を守る母親の姿で、それは新一にとっては希望だったのではないでしょうか?
つまり、自分がもはや人間ではなくなってしまったのではないかと疑問は、パラサイトが人間の子に向ける母親の姿によって否定されます。新一を逃さないために、新一の母親の顔を擬態した田村玲子の行動は、それをさらに後押ししてくれます。自分と母親の間にあったはずの絆に疑問を抱き、自分は人間ではなくなってしまったのではないかという不安に苛まれていた新一の心は、仮に新一の肉体が既に人間でなかったとしても、自分は人間であり母親の子供であるということを思わせてくれる存在が、人間の子に母として振る舞うパラサイトの田村玲子であった、という話ではないかと僕は思いました。
そのとき、新一は涙を取り戻します。パラサイトは以前、人間が泣くということを独特だと表現していました。自分以外の者のことを思って泣くことは、個としての意識が強いパラサイトからすればその時点では理解できなかったものだったのでしょう。人間には巨大な脳があり、自分以外の人間もまたその脳を共有する仲間であるがゆえに、人間は他人のために涙を流すのだと思います。
田村玲子は、繁殖能力もない自分たちが何のために生きているのかについての疑問を抱いていました。しかし、我が子が殺されようとしたとき、彼女は助けるという選択をします。その瞬間、彼女は少なくとも我が子との間に自分の脳以外のもう一つの脳を獲得した瞬間であったと思います。それは彼女が持っていた、自分が何のために生きているのかの答えを得た瞬間だと思います。自分の生はこの子供を生かすためにあったということです。
「遺伝的な繋がりがなくとも、もう一つの脳を共有したこの子供が、この先、生きていくことが、自分の生のその先にあるものだ」という答えです。それは、死んだ犬の肉が栄養となり、木を育てるような話かもしれません。「自分の生の先にあるもののために自分は生きていた」という実感と満足感です。だからこそ、その生きる理由が見つかった以上は、自分自身の生存そのものにはこだわらなくなったのではないでしょうか?
田村玲子は、自分以外のパラサイトがある種の社会性を獲得していく様子に喜びを抱いていました。だから、自分が人間のように変化していることにも喜びを抱いたのかもしれません。田村玲子はパラサイトと人間を「一つの家族」、パラサイトを「人間の子供」と表現します。それは、自分というパラサイトを通じて、その次の世代に子供が繋がっていくということから、自分もまた人間の巨大な脳の一員であるという認識に至ったのかもしれません。
いや、人間だけでなくあらゆる生物が、生態系の中で連携してそれぞれの生存を続けています。その意味で全ては家族であり、それは最終巻で繰り返される「寄り添い生きた」という「寄生獣」のタイトルを思わせるセリフにも見て取ることができます。
寄生獣の物語の面白いところは、こういった生物全ての関係の中で生きているという、理解の得やすい大きな話を真面目にした上で、では、その場合、個別の種の間ではどうなのか?という小さくて現実的な側面をごまかさないところにあると思います。
田村玲子のエピソードの後に登場するのが、殺人鬼の浦上です。彼は生きるためでもなく楽しみのために人を殺す存在です。パラサイトの殺人は本能ですが、浦上のそれは意思によってもたらされています。その意味で、浦上は人間の巨大な脳から切り離された存在であると言えるでしょう。新一が苦しんでいたその問題を、浦上は苦に思わないどころか誇ってすらいるように思います。
このテーマ性でもう一人見逃せないのが市長の広川です。パラサイトの食事を感じるために市長にまで上り詰めた広川の正体は実は人間です。
パラサイトの食事を必要なものとして捉えられる広川は巨大な脳と切り離された存在でしょうか?広川の目的は、パラサイトを人間より上の捕食者とすることでバランスをとることです。それは人間が人間の巨大な脳だけに囚われて、他の生物を脅かすことへの危惧によるものです。バランスをとるためには人間が食われることは必要悪であると広川は捉えています。
生物全体が家族であったとして、それでも食って食われての関係は存在し、それを種のレベルでは不幸と捉えることはあるはずです。広川は生物全体が共有する架空の巨大な脳を思うことによって、その種のレベルの不幸を許容するという態度を示します。
つまり、パラサイトの本能をそのままに人間が共生するということはそういうことです。パラサイトの本能の肯定には、人間の死が伴います。それは、パラサイトと人間が共生するということの困難さがそこにあるということを示しています。
その事実を象徴するのが後藤の存在です。5体のパラサイトを身に宿した後藤は、他のパラサイトの何倍もの「この種を食い殺せ」という本能に突き動かされています。まるで人間の集団の怒りが、より集まることで増幅されるように。そんな後藤とは、人間が死なずに共生するという道はありません。
後藤にトドメを刺すときに新一は躊躇します。後藤は生物の本能にしたがっていただけで、死にかけている姿を見ればか弱い細胞体に過ぎません。人間もパラサイトも同じ生物、という視点に立ったとき、その本能に従って生きることは悪でしょうか?彼らはそう生まれついただけなのに。自分とパラサイトを生物という同じ視点に立ったとき、悪くなんてないという結論に至ってしまいます。それは人間が、自分たちが共有している脳の中に、他の生物たちも入れてしまうような行動です。それは「共感」です。
寄生獣のすごいところは、新一がそうやって一度はお互い様として認識した相手を、自らの手で殺すことを決断するところでしょう。新一は人間の手である左手にナタを持ち、パラサイトが生きるために必要な人間の内臓を破壊します。
新一が最後に漏らす「きみは悪くなんかない…でも…ごめんよ…」という言葉は、相手に感情移入はできる上で、「自分たちの生存を脅かす存在を、意志を持って排除する」という、ちっぽけな人間の出した結論です。広川のように大きな目的のために犠牲が出ることを許容できず、感情移入した相手を殺したくないと思える人間の心の良さを感じた上で、それでも自分のちっぽけな利害を優先した新一の態度の裏には、そのちっぽけな一個人の周りで起こった沢山の不幸があったと思います。
物語の最後、田村玲子のように、他のパラサイトたちの中にも人間のように暮らす変化を迎える者が出たことが描かれます。「この種を食い殺せ」という本能は本能として、人間と同じ食生活でも生きることはできるのだから、食生活をそちらに切り替えて生きる個体もいたようです。
それは人間もまた同じではないかと思います。人間が一個人の欲望に反するようなルールのある社会を作り、そこに所属することで生きていくということを選んだことは、そのパラサイトたちと同じではないかと思います。
そして、そんな選択をできない浦上の存在があることによってこの物語は締められるのですが。
このように、人間がなぜ人間性を持って生きているかということを、人間性を持ちえない存在との対比や、人間ではない者が人間性を獲得していく過程、そして、人間性を失いそうで揺らぐ存在を描くことで浮かび上がらせたのが、この「寄生獣」という物語ではないかと思います。
人間はなぜ生物として単体の欲望に反するような社会を生み出し、それを維持しているのか?について思いを馳せるような物語だと思います。
そんな、人間が人間であるということを描いた普遍的な話であるがゆえに、この物語は人の心に残り続けるのではないでしょうか?
最後に、ミギーには他のパラサイトとは明確に異なる特徴が一つあります。それは「ミギーの口には牙がないこと」です。右手に寄生したミギーの口は、消化器官に繋がっていないため、「食べるための口」ではなく「喋るための口」です。そのため、他のパラサイトたちが正体を現したときにはその口には牙がありますが、ミギーの口には牙がある場面はほとんどありません。他者と言葉を交わすことを目的とした口があったことがミギーの個性です。それによって、新一と話し続けたことが、ミギーが人間性と思えるものを早期に獲得した理由ではないかと思います。
人間の人間性もまた、「喋るための口」によって成り立っているのかもしれません。







