「ダンジョン飯」は九井諒子先生の漫画で、ダンジョンの奥深くで死亡した妹ファリンを助けるために、兄ライオスが、仲間たちとともに再びダンジョンに潜るお話です。敗北の中、ファリンの力で一度ダンジョンの外に出られた一行は、資金もなく食料も調達する暇なくダンジョンに再突入します。そんな何も持たない彼らが(主にライオスが)とった判断は、食料を現地調達すること。つまり、ダンジョンに生息する魔物を食べながら進むことです。かくして一行は、ダンジョンの様々な魔物を調理して食べながら冒険を進めるのでした。
本作の面白いところのひとつは、RPGに登場する魔物たちの生態をいかに生物として解釈するかと、それを調理という目線で既存の料理と組み合わせるかという発想の部分です。RPGにおける魔物の役割は、とりわけに昔のRPGにおいては、「プレイヤーと戦うこと」と「倒された際に経験値や素材やお金を提供すること」のみでした。なので、その場合、魔物たちがどのような環境で生きていているかなどは気にする必要がありません。彼らがどのような生態系の中で何を食べて、どのように繁殖し、そこに生きているかの部分は存在する必要がありません。そうであってもゲームの中では成り立つからです。
そして、この漫画はその空白部分を埋める試みだと思います。
例えば本作では、動く鎧の魔物は、「貝のような魔物が鎧や剣を貝殻の代わりにして動いている」などのように、納得感があるとともに、それまで聞いたことのなかったような独自の解釈が披露されます。それによって、それまで知っていた魔物たちが、実はこうだったという種明かしを知れるような面白みがあり、その部分がビデオゲームファンである僕には嬉しい部分でした。解釈された生態は、実在の生物と関連づけられ、そして実在の料理と繋がる形でライオスたちの胃に収まります。
本作に存在する構造を、分かりやすく示すエピソードがあると思います。それはキメラファリン(あるいはファリゴンとも)です。


キメラファリンは、レッドドラゴンに食われていたファリンを生き返らせるにあたって生まれた存在です。蘇生にあたってドラゴンの血肉を利用してしまったことを契機に、ダンジョンの支配者である狂乱の魔術師によって支配され、ファリンは姿を変えられてしまいました。その姿は、レッドドラゴンの首から上の部分に、ファリンの上半身が接続されているというもので、ケンタウロスに似ています。あとレッドドラゴンの頃にはなかった羽毛が生えています。
このキメラファリンは、ファリンとレッドドラゴンを無理やりくっつけただけの存在なので、見た目上の美は存在するものの、生物として捉えた場合にあまりにも歪なのでした。
例えば、レッドドラゴンの体内には炎を吐くための器官が存在しているのに、その内臓に対してファリンの人間の頭は応えてくれず、炎を吐くことはできなくなっています。そして、レッドドラゴンの巨体を維持するために必要な量の食料を、人間の頭では十分に摂取することができません。そのため活動するうちに栄養不足になってしまいます。そう、キメラファリンは、生きることすら困難である身体なのです。
通常の生物というものは、肉体が全体として調和がとれているものです。身体の各部同士が連携しあうような調和をとる形で生命は維持されます。しかし、キメラは複数の生物の特徴を無理やり繋げている存在であるため、単純にそのままでは歪であり、調和がとれていません。それは、本来くっつかないものを無理やりくっつけたことで出てくる矛盾です。
そう考えたとき、「RPGの魔物」と「食材としての生き物」もまた、ある種のキメラであることに気づきます。その繋げ方が歪であれば、見た目は美しくても、構造として美しくありません。なぜならば歪であれば、その姿で生きることも困難であるからです。つまり、このエピソードは、本作における魔物と食材が、キメラファリンと同じ構造をしていることを示しており、それは「繋げたものが調和を重視した作りになっているかどうか?」という部分に焦点を当てるきっかけとなっていると思います。
その点から考えて、「本来くっつくはずのないもの同士をくっつけた際に、そこにある矛盾に手を加えることで調和を生み出す」ということの美学が、ダンジョン飯の物語の背後にある構造ではないかと思います。そこに求められているのは、「不完全なものを完全なものとして語りなおす力」です。
ここで思い出すのは、九井諒子先生の短編漫画「竜の学校は山の上」です。このお話は、大学の竜学部を舞台にしていています。その日本で唯一の竜学部に進学した新入生には、最初に「日本には竜の需要がなく、従って竜学部の学生には就職先もない」ことが伝えられます。
竜は、食用として考えても、可食部の少なさと育てるコストの観点から牛豚鶏と比較した割の合わなさが語られ、愛玩動物としての需要も、可愛さの観点や飼うことの困難さから少なく、ならば移動手段と思っても、積載量や連続飛行の観点から動力機関を使った方が望ましい。そんな評価の中で、ゲームの中なら竜には活躍の場所があるのにと皮肉に語られます。そして、作中で書かれた論文は「現代日本に竜は必要ない」という結論で終わっています。
ただし、このお話の中では、竜がいかに現代日本に必要ないものであるかが語られたあと、竜が雄大に空に飛び立つ場面が描かれます。九井諒子先生の端正な筆致で描かれたその姿はとても美しく、これに意味がないなんて嘘だろと、理屈ではなく感覚で理解させてくる力がそこにあります。
それは怒りかもしれません。世間は竜を必要としていない、でも、必要ないなんてことを否定したいし、しなくちゃならないのに、具体的なこう役に立つということは何ひとつ言えない、という苦悩がそこにあります。そんなままならない状況に対する怒りがあります。
つまりそこにあるものもまた、キメラの不完全さでしょう。「竜」と「現代日本」という2つの概念のキメラには矛盾があり、竜がその中で生きていくことは歪です。
しかし、このお話はこう続きます。世の中には2つのものしかなく、それは「役に立つものと、これから役に立つかもしれないもの」です。だから、役に立たないからといって簡単に捨ててはいけなくて、これから役に立つかもしれない道を探す学生たちの姿で終わります。
ダンジョン飯はこの延長戦上にある物語なのではないでしょうか?
魔物たちはRPGとしての役割は果たすものの、生き物として描く場合には不完全さがつきまといます。それを完全なものとして語りなおすことは、これから役に立つかもしれないものを、役に立つものにする行為です。そう考えると「ダンジョン飯」は「竜の学校は山の上」で提示された課題について、ついにそれをやり遂げた話として捉えることができます。
ダンジョン飯の終盤には、多種多様な竜が登場する展開があります。そして、竜を食べることによってお話は終わっていきます。それは不完全な竜を、完全な竜にするための儀式と言えるのかもしれません。
藤原カムイ先生が描いたドラゴンクエストの漫画「ロトの紋章」には、ムー帝国の科学力で生み出された異魔神の不死の肉体を、竜に変身した竜王が食べる場面があります。そして、その光景を目にしたタオ導師(かつてムー帝国の王であった)はつきものが落ちたような笑いの感激に至ります。なぜなら、科学によって生み出された不死の肉が、原始的な本能のままの竜に食い荒らされるということは、神格化された科学を地に落とす行為として受け取ることができるからです。つまり、食うことが、神を殺せる生き物として語り直す行為となっています。
このような感覚を参照すると、超越的存在を「食えるようにする」ということは、生きている者の隣までそれを連れてくる行為なのかもしれません。それは超越的存在に対する冒涜かもしれませんが、ともに生きたいものとしては福音かもしれません。
九井諒子先生の漫画には、超越的な存在であるゲームの世界にある隙間を埋めることで、現実の世界に落とし込むような内容のものが多くあります。それは、憧れたとしても遠くにあるゲームの世界を、ともに生きられる世界として語りなおす行為と捉えることができます。
ただし、それは考えなしにやってしまうと、そこに生まれるのは歪なキメラでしかなく、その歪さを笑ってしまいそうになったりするものになってしまうと思います。
しかし、それを調和のとれた完全なものとして存在させるということをやり遂げたのが、このダンジョン飯という物語なのかもしれません。







