漫画の絵の上手い下手の基準って何?関連

ピエール手塚

 漫画の絵の上手い下手って、昔からネットで散々語られてきたものの、いまだ統一見解みたいなものってないように思います。
特に漫画家の言う上手い下手って、世間の人が言う上手い下手とは基準が異なるようで、世間で下手扱いされている漫画家の絵を見て、多くの漫画家が「いや、この人はすごく上手いよ」と行ったりすることがよくあります。

 それは、どちらかが間違っているかではなく、そもそも何をもって上手い下手としているかの観点の違いだと思います。そこで、この文章では、そもそも漫画における絵が上手いとはどういうことなのか?という観点について書こうと思います。

 さて、漫画における絵は、象形文字に近いものだと考えています。つまり、「象」という文字を見て、その文字が意味するのが象という動物のことだと分かって欲しいように、漫画では、その絵を見て何を思って欲しいかが明確に設定されていることが多いです。作者が意図したものを、絵を通じて読者の頭の中で再生できるようにするための象形文字です。

 つまり、漫画の絵が上手いかどうかの観点の一つは、「象形文字として有効に機能しているかどうか?」という部分にあると思います。もしこのコマには明確な意味はなく、「どんな風に読んでくれてもいいんですよ」と言ってしまうと、その漫画を読んでも、作者が意図している物語がまるで伝わらないかもしれません。

 漫画に限らず表現物は、最終的に「その鑑賞者の頭の中で、その頭の中にある材料のみで組み立て直されたものが、鑑賞者にとっての真」となるため、作者の頭にあったものを読者の頭の中に完全に伝えきることは難しいものです。人によって頭の中にある材料は異なるためです。
 なので、そこには正確には伝わらない遊びの部分が残されることもありますが、とりわけ漫画では、ある程度は作者の意図した通りに読んで貰わないと成立しないため、読者にどれだけ意図通りに読ませられるかや、読者の頭の中の材料を上手く使うことで多彩な表現を読み取って貰えるかが絵の上手さの基準となります。

 つまり、上手さの基準は「表現力」です。そのコマの中の絵が、「漫画の内容を伝えるという役割を果たす上での最適な形」になっていれば「上手い」という話になります。

 その観点では、描かれている絵の「物の形が正確にとれていること」や「光の当たり方が正しいこと」「空間を表現出来ること」「難しい構図を描けたりすること」のような写実的な画力は、漫画における絵の上手さとは直接的には関係ないと思います。
 あくまで漫画の内容を伝える上で、難しい構図で空間を表現し、物の形と光の当たり方が正確であれば、より有効に機能するという場合においてのみ、「上手い」ということになると思います。

 なので、例えばいかにデッサンが上手くても、可愛い女の子を表現しないといけないコマで、その女の子が多くの読者にとって可愛いとみなされなければ、それは「下手」ということになります。表現しないといけないのは「可愛い」なのに、それが伝わっていないということは漫画の内容を正確に伝えることに失敗しているからです。

 つまり、漫画においては、描きたい内容によって同じ作者でも絵の上手い下手は変わってくると思います。色んなものが描ける人は、何を描いても上手い状態を維持しやすいかもしれません。しかしながら、描きたい内容と絵がフィットしていれば、描けるもののバリエーションが少ない人でも漫画として上手い絵となることができます。

 例えば、福本信行先生の絵を「下手」と表現する人を目にすることがあります。僕と友達(漫画家)の間では、絵がめちゃくちゃ上手いという評価で一致しており、原画展を見に行ったときも、なんて上手いんだ…と二人で感激し合っていました。
福本伸行先生の絵は確かに写実的ではありませんし、人の絵のデフォルメの仕方も独特です。でも、それが漫画表現として下手かというと、表現している内容にフィットしているため、これは「上手い」ということになります。

 まずなにより、書いている絵が何なのかが分からないということがありません。ギャンブルの状況を正確に把握させる絵の上手さがありまし、カイジシリーズに登場する兵藤和尊のように、口が耳まで裂けて歯が異常に多い絵も、全く写実的ではありませんが上手い絵です。なぜならば、「不気味な老人」というものを表現することに成功しているからです。どれだけ写実的な絵が描けたとしても、読者にこの老人は不気味だと思わせる力が強くなければ、それは不気味な老人を描くという目的に対しては下手な絵ということになります。

 それに、例えば皆さんが一番上手いと思う絵を思い浮かべてください。その人が、カイジの作画だったとしたらどうでしょうか?絵は当然上手いと思います。しかしながら、福本伸行先生の絵にはあったものが抜け落ちているとは感じないでしょうか?もし、あっちにはあったけど、こっちにはないと思ってしまう良さがあるのであれば、その差分があると感じる時点で、やはり上手い絵なのだと思います。良さを表現できているからです。

 例えば他の事例では、Webでネームやそれに近い状態で連載されている漫画が、他の「上手い」漫画家の作画で商業連載になることがありますが、そのときにも、平均的な画力で言えば、商業連載を担当している漫画家さんの方が幅広く「上手い」と思われる場合でも、「ネームの絵の方が良かった」と感じることがあると思います。
 つまり、そこには別の人の絵に置き換えられるときに抜け落ちたものがあり、その抜け落ちた良さを表現できていた絵の上手さがあると思うんですよね。

 こういう話をするとこれについて「絵は下手だが漫画が上手い」みたいな話をする人がいるのですが、その言い方はとても的外れだと思っていて、僕の考えでは「絵が上手い」と言っていいと思います。なぜならば、絵が下手ならば、絵が上手い人が代わりに描いたときに100パーセント良くなるはずですが、ネームの絵の方が良かったと感じることがある以上、そこには上手さがあったと思うからです。それは全方位に上手いわけではないかもしれませんし、ネーム版の作者には描けなかったもの、表現できなかったもの、つまり下手な部分があるにせよ、上手い部分もあったということが重要です。
 最初の方に書いたように、漫画の絵にはその絵を見てどう思ってほしいかという明確な目的があり、その目的に即していればその絵は上手いと言えると思うからです。

 さて、これは「ヒストリエ」のハルパゴスの絵を僕が自分の絵柄で模写したものです。頑張って元の絵の良さを再現しようとして描きましたが、元の絵の方がいいなと皆さん思うのではないでしょうか?つまり、僕の絵が下手で、岩明均先生の絵の上手さを再現できていないということです。
 岩明均先生は、とてつもなく絵が上手いと思いますが、インターネットを眺めると、あまり上手くないという意見も目に入ることがあります。

 岩明均先生の絵の上手さは、特に死体や人体を損壊する描写に見てとることができます。例えば、ハルパゴスのくだりであれば、ハルパゴスの息子の死体の描写がありました。切り落とされた手の指が生きている手ではないことが指の曲がり具合で読み取れます。腱が切られて制御を失っている指が、雑然と押し込まれたために、指が生きている人間ではならない形で折れ曲がっており、これは死体の手であることが一目で分かります。表現したい意図があり、それが十全に表現されています。
 岩明均先生の漫画には、人体が生きているものから、死んでいる物体に変化するということについての観察と思索がそこにあり、そのことを絵で表現していることが他の漫画にはない得意な表現となっており、それが有効に機能していると感じているため、漫画の絵としてとても上手いということが分かります。
 人体の構造上、こういう衝撃が外部からあればこうなるはずという表現もあれば、寄生獣では、寄生生物が擬態していただけであるため、既知の人体構造を無視した変形を行う描写もとても上手いです。人であれば骨や筋肉があるため、そうはならないということを、あえて描写することが、強い違和感として表現され、それがとても有効に機能しているからです。

 また、人間の表情についても描写力がとても高く、他の漫画家が寄生獣を描く「ネオ寄生獣」や「寄生獣リバーシ」などでは、特に寄生生物の表情が原作の模写的なものとなっていることが多く、その理由は寄生生物の微妙なニュアンスのある表情は、この絵でなければ表現が難しいからではないかと思いました。僕もハルパゴスの絵を描いていて、自分の絵では元のニュアンスがでないんだよなと思って調整をしまくりましたが、再現は諦めました。

 このように、上手さというのは「表現力」であり、その絵を見たときに「読者が何を感じるのか?」という部分に発揮されます。一見下手と思ってしまうような絵でも、他の人の絵に置き換わったときに、「確かにこっちも上手いけど、抜け落ちたニュアンスがある」と感じられれば、そこには上手さがあると思います。
 漫画家が他の漫画家の絵を「上手い」と表現するときには、「自分には再現できないニュアンスがこの絵にはある」という意味で言っていることも多く、そこが漫画を描かない人との観点の差になるかもしれません。

 最後に、漫画家自身は自分の絵を「下手」と表現することも多いと思います。むしろ、ある漫画家の絵を「下手」と一番思うのは描いている本人かもしれません。なぜんならば、「目的として表現したいものに対して十分表現できていれば上手い、表現できていなければ下手」と考えた場合、その漫画家が表現したかったものは、実際に紙面に現れた絵の何倍もすごいものが目標としてあった可能性があるからです。
 読者がその絵を上手いと感じたとしても、読者の立場では窺い知れないその目標の高さを、作者自身は知っているからこそ、十分に表現できなかった自分はなんて絵が下手なんだと感じていることはよくあります。
 その場合、「上手いですよ」と読者が褒めても関係なく、作者にとってそれは「下手」という認識で正しいと思うんですよね。
 一方で、読者がその絵を「上手い」と感じたことは、作者がいかにそれを「下手」だと言ったところで関係ありません。なので、作者が「下手」だと自作を表現していても、まあそんなものだと思っておくのでいいのではないかと思っています。

 まとめると、漫画における絵の上手さというのは、表現するべきものをその絵で表現できているかという表現力が基準だと思います。その大前提として、絵が表現しているものが「誤解なく伝わること」が重要で、どういうことになっているのかが分からない絵であったり、登場人物の区別がつかない絵であったりすると読者にそれが伝わっていないので下手だと思います。
 目的が表現である以上、漫画家個人単位での絶対的な絵の上手い下手はなく、何を表現した以下によって上手い下手は変わってくるものだと思いますし、何を表現したかったかを一番知っている漫画家自身は、自分を十分に表現ができない下手くそだと思っていることも多いと思います。
 一つの漫画においても、この表現においては上手いが、この表現においては下手ということもあります。その解決策として、漫画版の「グミ・チョコレート・パイン」では、ヒロインだけを別の漫画家が描いていました。それは「とんでもなく可愛い女の子を表現する」という一点において、作者が力不足だと感じており、他の人が描いた方がいいという判断ではないかと思います。
 また、言語化の難しい、ある絵を見たときに感じる特別気持ちというものがあって、それが別の人の絵になったときには、そのニュアンスが完全に再現されていないと感じて少々がっかりしてしまうこともあります。その場合も、どのように上手いかは表現が難しいですが、そこには上手さがあると思うんですよね。

 人が絵を上手い下手と言っているときには、どういう基準で上手い下手と言っているかが大切だと思っています。その基準が異なるときに、上手い下手の評価がすれ違うこともままあり、インターネットではずっとすれ違っている様子を目にしたりしますが、基準が違うんだから仕方がないことだと思います。
 なので、こういう基準で言っているんだなと思えば理解はできると思うので、そういうことを書きました。

 岩明均先生の「寄生獣展」が6月6日から横浜で開催されるので、上手い絵を見に行きましょう。僕はチケットをとりました。

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