

25年目の鮮血と、高解像度で蘇る「痛みと性欲」
2001年、第54回カンヌ国際映画祭。深夜の上映会場は、パニックに包まれていた。 スクリーンに映し出される、あまりにも鮮烈な鮮血と、直情的な性愛。席を立ち去る観客が続出した。フランスの鬼才クレール・ドゥニ監督による『ガーゴイル(原題:Trouble Every Day)』は、映画祭のスキャンダルとしてその名を映画史に刻み込んだ。
あれから四半世紀近くが経過した2026年。この曰くつきの傑作が、4Kリマスター版として現代のスクリーンに帰還する。 映像の解像度が上がったことによって、我々はかつて見落としていた、あるいは直視することを拒んでいた「痛みと性欲」の生々しすぎるディテールを、より鮮明に目撃することになるからだ。
当時、この映画が異質だった最大の要因は、ジャンル分け不能なところにあった。「ホラー」として見るにはあまりに静謐で、「恋愛ロマンス映画」として見るにはあまりに残酷すぎる。筆者はロマンス映画をあまり見ないので、甘いカップルのシーンと血塗れの凄惨な殺害シーンのギャップに驚いてしまった。 昔の方が映画のジャンル分けは明快だった。しかし今はカルチャーのあらゆる境界線が溶解し、多様な価値観が混在するのが現代。今こそ本作の真価が問われるべきだろう。


本稿では、スラッシャー映画史における「殺人鬼」および「食人(カニバリズム)」の系譜を紐解き、クレール・ドゥニという作家の特異な視線、ティンダー・スティックスの劇伴、そして一番の特徴であろうセックスシーンの機能的意味を分析したい。そうすることで、本作がかなり現代的な「殺人鬼」の物語であるかを論じたい。
クレール・ドゥニの視線――「肉感」の監督
まずはクレール・ドゥニという監督について。彼女は常に「身体」と「他者」を撮り続けてきた作家だ。 彼女の代表作『美しき仕事』(1999)では、外人部隊の男たちの鍛え上げられた肉体を彫刻のように捉え、後のSF作品『ハイ・ライフ』(2018)でも、宇宙という密室で印象深い描写はのやり取りを生々しく描いた。 彼女にとって映画とは、物語を明瞭に説明する事ではなく、観客の「触覚」を刺激する装置なのだろう。
今回、4Kリマスター版が公開されることの最大の意義は、この「肉体」の質感が極限まで突き詰められる点にもある。 ドゥニと撮影監督のアニエス・ゴダールは、極端なクローズアップを多用する。肌のきめ、汗の粒子、産毛の揺らぎ、血管の浮き沈み、そして流れる血液の粘度。 4Kの高解像度は、それらを有機的な「物体」として我々の目の前に突きつける。
デヴィッド・クローネンバーグのような「ボディ・ホラー」の巨匠たちも肉体の変容を描くが、彼らの視線にはどこか臨床的な冷たさや、実験的なニュアンスがある。 しかしドゥニの視線はもっと官能的で、湿度が高い。
彼女は、殺人鬼を「排除すべき悪」として突き放して撮らず、恋人の肌を愛でるような執拗な視線で、加害者と被害者の肌を舐めるように映し出す。
理性が崩壊し、人間がただの「獣」へと還っていく瞬間を、恐ろしいほどの美しさで捉える。この「皮膚感覚のリアリズム」こそが、本作を他のカニバリズム映画と一線を画す芸術的な雰囲気を持つ作品へと押し上げている要因だ。つまり、何をしても画面がオシャレなのである。
映画における「殺人鬼」の類型――知性、不死、そして「病」
映画というメディアは誕生以来、数え切れないほどの「殺人鬼」を生み出してきた。彼らは恐怖の象徴であり、その時代の闇を映す鏡でもあった。 『ガーゴイル』における特異なカップル、コレ(ベアトリス・ダル)とシェーン(ヴィンセント・ギャロ)の位置づけを明確にするために、まずは映画史における有名な殺人鬼の類型を整理する。
第一の類型は「超越的な殺人鬼」である。 ジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』(1978)におけるマイケル・マイヤーズや、『エルム街の悪夢』のフレディがこれに当たる。『悪魔のいけにえ』のソーヤー一家など、枚挙に暇がない。基本的な彼らは会話が出来ても言葉は通じず、殺害の動機も異常、そして不死に近く、理屈の外側の残忍さがある。彼らは人間というよりは「死」そのものであり、理不尽な天災に近い。視聴者は彼らに恐怖し、逃げ惑う主人公に感情移入する。しかし、殺人鬼の内面に同調する者は少ないだろう。
第二の類型は、「知性の高いサディスト」。 その頂点に君臨するのは、『羊たちの沈黙』(1991)のハンニバル・レクター博士だろう。作中のメイスンの様に、筆者も彼に憧れてしまうところがある。『セブン』(1995)のジョン・ドゥや『サイコ』のノーマンも当てはまる。彼らはカニバリズムや連続殺人を行うが、そこには高度な美学と哲学、そして歪んだ理性が存在する。「食人」は彼らにとって、単なる空腹を満たす事ではなく、美食の追求であり、尊厳の凌辱であり、一種の優越性の証明だ。彼らは社会のルールを嘲笑うかのように殺人を犯す。観客はその悪のカリスマ性に魅了され、一種のダークヒーローとして崇拝すらする。
そして第三の類型、近年急速に増えたのが「社会の被害者としての加害者」だ。 『ジョーカー』(2019)のアーサー・フレックが象徴的だろう。普段この手の映画を見ない人たちまで、時代に肉薄した痛々しいジョーカーに夢中になったのが印象深かった。彼らの殺人は、貧困や格差、不条理な社会構造に対するカウンターであり、SOSの叫びだ。観客は彼らの悲哀に深く「共感」し、その凶行にカタルシスすら覚える。ここでは、悪は個人ではなく社会システムの方に存在すると定義される。
因みに最も有名な殺人鬼であろう『13日の金曜日』シリーズのジェイソン・ボーヒーズは第一の類型に入れられがちだが、彼とその母親には明確な動機があるので個人的には分類三だ。
だが、『ガーゴイル』におけるコレとシェーンは、このどの類型にも完全には当てはまらない。 彼らは天災でもなければ、美食家でもなく、社会への復讐者でもない。彼らはただ、「病んでいる」のだ。 彼らには殺人の哲学もなければ、社会へのメッセージもない。あるのは、先進的な医療実験の副作用によって脳の神経系に組み込まれてしまった「制御不能な衝動」だけである。 しかもそれは性欲に強く絡んでいる。彼らの加害の瞬間にカタルシスはなく、あるのは残った自己嫌悪と、満たされることのない渇きだけだ。理性ではどうにもならない業を背負い、彼らは「殺人鬼」でありながら、誰よりも肉体という牢獄に囚われている様だ。おそらく人間以外だと衝動から解放されるので、無心に犬を愛でるシェーンに、筆者は悲しさを感じた。病巣的に人を殺してしまう彼からは、分類不能な哀れさを一番惨めな殺人鬼とも言える。


ジャングルから寝室へ――カニバリズム映画の変遷と「恐怖の所在」
本作の特異性を語る上で避けて通れないのが、「カニバリズム映画(食人映画)」というジャンルの系譜との比較だ。奇しくも近年、このジャンルの金字塔であるルッジェロ・デオダート監督の『食人族』(1980)も4Kリマスター版としてリバイバル上映された。観る手段が今までなかった食人族が映画館で観られると聴いて嬉々として映画館に行った筆者も、普通に具合が悪くなった。文句なく文明人が醜く、食人族は怖い。観ていて休まる事が一時たりともない凄まじい映画だった。
『食人族』を観てしまうと全てのカニバ要素がある映画がその因子を持っているように見えるが、中でもイーライ・ロス監督の『グリーン・インフェルノ』(2013)は良かった。それまで食人衝動の恐怖の源泉は常に「文明の外側」にあった。 アマゾンの奥地、未開のジャングル、独自の掟で生きる部族。我々にとって、食人とは「あちら側の世界」で行われる理解不能な儀式である。そこには、見世物小屋的なモンド映画の系譜としての一線を置いた上での「他者への恐怖」がある。
しかし、『ガーゴイル』は食人の恐怖を、ジャングルから現代のパリ、それも本来なら安心できるはずの「夫婦の寝室」「隣の恋人」へと持ち込んだ。 ここに部族の儀式はない。『ガーゴイル』の主人公たちに逃げ場はない。殺人、食人衝動は普通にパリで生きる彼ら自身の「肉体」の中に、ウイルスのように定着してしまっている。
「未開の蛮族に襲われる恐怖」から、「愛するパートナーが、あるいは自分自身が、愛のあまり相手を食い殺してしまう恐怖」へ。 『ガーゴイル』におけるカニバリズムは、他者を排除する暴力ではなく、他者と融合したいという究極の求愛行動の暴走として描かれる。何故食べるほどの衝動が彼らにあるのか、他の食人映画ほどはっきり描かれない。そこに中毒性と衝撃がある。ただ、その衝動の切実が生々しく伝わってくるだけだ。
近年、ジュリア・デュクルノー監督の『RAW〜少女のめざめ〜』(2016)や、ルカ・グァダニーノ監督の『ボーンズ アンド オール』(2022)など、カニバリズムを思春期のメタファーや純愛として描く作品も散見するが、『ガーゴイル』はその始祖でありながら、どれとも違い、最も救いがないとも言える。
若者特有の「成長痛」としての食人ではなく、大人の静かな「持病」としての食人を描いている。シェーンは、死ぬまで恋人を悲しみながら衝動的に食い殺していくしかないのだろう。
リビドーと食欲の融合が生む、極度の生々しさの正体
本作を観た筆者が最も戸惑ったのが、執拗なまでに繰り返されるセックスシーンの多さと長さだ。しかし、結論から言えば、この過剰な性描写こそが、本作のスラッシャー部分の前戯として機能している部分なのだ。
作中で描かれる「病」の本質は、性衝動(リビドー)が食欲へと直結してしまっている点にある。 通常、人間にとって性行為は種の保存や快楽のためのものだが、コレやシェーンにとって、性的な興奮は脳内で「捕食スイッチ」をオンにするトリガーとなってしまう。愛撫し、キスをし、体液を交換する行為が、そのまま「肉を噛みちぎり、血を啜る」行為へとシームレスに移行する。
つまり、観客にとってのこの映画のセックスシーンは、ポルノグラフィ的な興奮を提供するものではなく、「時限爆弾のタイマー」を見せられているのと同じなのだ。 「いつ噛み千切ってしまうのか?」「いつ殺してしまうのか?」 濃厚なキスシーンが長引けば長引くほど、観客の緊張感は極限まで高まる。甘美なラブシーンが、一瞬にして凄惨なスプラッターへと変貌する。喘ぎ声からの恐ろしい悲鳴に変わる瞬間は、今観ても新鮮な不快感を感じる。
ファンタジー殺人鬼の代表と言える吸血鬼モチーフの映画がロマンティックなメタファーとしてオブラートに包んで描いてきた「吸血行為=性行為」という図式を、クレール・ドゥニはあまりにも即物的かつグロテスクな現実として剥き出しにする。
コレがトラック運転手を誘惑し、草むらでの交尾の果てに相手を食い殺すシーン。コレが見せる、恍惚と絶望が入り混じった表情。そして口の周りを鮮血で染めながら立ち尽くす姿。 快楽殺人の描写というより、最早制御不能な飢餓状態であり、逃れられない依存症。愛の成就が同時に死を意味するこの図式は、ロマンス映画の導入なのに関わらず、究極のアンチ・ロマンスとして機能している。
聴覚の麻酔――ティンダー・スティックスの鎮魂歌
映像の凄惨さと対照的に、本作の聴覚的な世界は驚くほど甘美だ。 ホラー映画の常識を覆すのが、イギリスのバンド、ティンダー・スティックスが提供した劇伴の存在である。 通常、ホラー映画において音楽は恐怖を煽るために使われる。不協和音、急激な音圧、金属的なノイズ。観客の心拍数を上げ、警戒心を抱かせることが目的だ。
しかし、ガーゴイルの音楽は、メランコリックで、けだるく、そしてロマンティックだ。 オープニング曲「Trouble Every Day」の、震えるようなストリングスと囁くようなボーカル。それはまるで、これから始まる地獄は、悲しい愛の詩であると錯覚させるかのように響く。
画面の中でコレが血に塗れている時、あるいはシェーンが衝動に耐え震えている時、流れるのはこの優雅な旋律だ。この「映像と音の認知的不協和」が、感情を揺さぶる。 「怖い」と感じる前に、「悲しい」と感じさせられてしまうのだ。 全体的に言葉少ななシェーンや、唸り声しか上げられないコレの代わりに、音楽が彼らの感情を叫んでいる。
現代における「触れる事への恐怖と共感」
2020年代のエンターテインメントにおいて、殺人鬼には「悲しい過去」や「理解できる動機」が付与されることが半ば義務化している。筆者も、観客も、論理的に安心したいのだ。「彼が悪に染まったのには理由がある」と納得し、安全圏から理解したいのだ。
しかし、ヴィンセント・ギャロ演じるシェーンと、ベアトリス・ダル演じるコレは、そのような安易な同情を拒絶する。 シェーンは新婚旅行中でありながら、妻を抱くことができない。抱けば食い殺してしまうからだ。
彼は自らの衝動を抑えるために薬を探し求め、苦悩する。だが、その苦悩はヒロイックなものではなく、見ていて痛々しいほどに惨めだ。ヴィンセント・ギャロという俳優が持つ、神経質で脆い存在感、美しくも独特の「情けなさ」が、キャラクターのリアリティを加速させる。


我々は今、ウイルスへの恐怖や、身体的接触への忌避感(タッチ・ハラスメントなどへの過敏さも含め)をかつてないほど共有している。
『ガーゴイル』で描かれる、「他者に触れること=死のリスク」という図式は、我々の無意識下の恐怖と奇妙にリンクする。 他者と愛し合わなくても必ずしも良い世界。現代の視聴者には、2001年に描かれたこの「接触へ渇望」がどう映るのか確かめるためにも向き合ってほしい。
ガーゴイルは何を見下ろしているのか
邦題の『ガーゴイル』とは、怪物の石像を指す。彼らは高い場所から、動くこともなく、ただ下界の人間たちの営みを見下ろしている。 このタイトルは、肉体という檻の中に、制御不能な怪物を飼ってしまった主人公たちのメタファーなのだろうか。それとも、彼らのような異形を、安全圏から消費し、見下ろしている不動の我々観客のことだろうか。
アプリで手軽に相手を見つけ、SNSで他者の人生を消費する現代の「愛」は、一見すると彼らの捕食行為とは対極にあるように見える。スマートで、清潔で、血なんか出ない関係性だ。
だが、相手を傷付けないで消費し、飽きればフェードアウト出来るという点において、現代の愛は彼らと違っているように思う。 相手を骨の髄まで愛し尽くし、その存在を自らの血肉に変えようとするガーゴイルの彼らのは、ある意味で愛に対して誠実すぎたと言えるのかもしれない。クレール・ドゥニとティンダー・スティックスは、その残酷な問いを、血と音楽に包んで我々に見せ付けてくる。
4Kの鮮烈な映像で蘇る『ガーゴイル』。 美しくも汚らわしいこの映画体験は、スマートで清潔なコンテンツに慣れきった我々の脳髄に、劇薬として作用するはずだ。
これは、理解も共感も超えた場所にある、純粋な「渇き」の記録である。


『ガーゴイル 4Kレストア版』
2026年1月30日(金)新宿ピカデリーほか 全国ロードショー!
監督:クレール・ドゥニ
出演:ヴィンセント・ギャロ、ベアトリス・ダル、トリシア・ヴェッセイ、アレックス・
デスカス、フロランス・ロワレ=カイユほか
2001 年/フランス/フランス語/100 分/カラー/R15+/字幕翻訳:橋本裕充/原題:
Trouble Every Day/配給:エクストリームフィルム
©MESSAOUDIA FILMS-REZO PRODUCTIONS-ARTE FRANCE CINEMA-DACIA FILMS-KINETIQUE INC.
公式HP:https://gargoyle4k.com/






