「ジョジョの奇妙な冒険」のディオ・ブランドーは超古代文明の石仮面の力で吸血鬼となり、120年以上生きました。これは平均的な人よりも長い期間です。しかし彼の人生をよく考えてみると、120年の内の100年近くは、棺桶の二重底の下で海中に沈んでいたことに気づきます。


このように図示すると分かりやすいように、ディオの一生のバランスは、セミの一生ととてもよく似ています(免責:ここから先に書いてあることはあまり真面目に受け取らないでください)。
ディオは、物語の第一部の最後、ジョナサン・ジョースターとの船での戦いのあと、爆発する船から逃げ延びるために入り込んだ強固な棺桶が海底に沈んでしまい、そのままでずっと生きていました。それは、約100年後にトレジャーハンターに引き上げられるまでの、いつ地上に出られるとも分からなかった孤独な時間だったと思います。
この文章では、ディオの「一生の大半を土の中で過ごすセミのような生涯」について思いを馳せてみたいと思います。
数字に対しては参照する資料で多少のブレがあるので、多少のブレはあるものとして読んでいただけますと幸いです。またその参照先は漫画のみであり、小説の設定などは対象外とします(そのものズバリのスピンオフ小説「OVER HEAVEN(西尾維新)」がありますし、「ジョージ・ジョースター(舞城王太郎)」でもこのあたりのことが描かれます)。
ディオの人生年表
- 1867年頃
- 誕生
- 1880年
- ジョースター家に引き取られる
- 1888年
- 11月 吸血鬼となる
- 12月 ジョナサン・ジョースターに敗北
- 1889年
- 2月 ジョナサン・ジョースターとの船での戦いで敗北
- 棺桶の二重底の下に入ったままで海の底に沈む
- 1984年
- 棺桶が引き上げられる
- ジョルノの母と出会う?(ジョルノの生まれ年から推定)
- 1985年
- 汐華初流乃(ジョルノ・ジョバーナ)誕生
- 1986年頃
- エンヤ婆がディアボロから弓と矢を手に入れる
- ディオがスタンド能力に目覚める
- 1987年
- ディオはスタンド能力の素質を持つ人間を探す旅に出る
- エンリコ・プッチと出会う
- アブドゥルと出会うが逃げられる
- その他色々な人を仲間に引き入れる時期
- 1988年
- 空条承太郎にスタンド能力発現、エジプトに出発
- ディオの息子リキエル、ウンガロ誕生
- 1989年
- 空条承太郎に敗北し、ディオ死亡
- 空条承太郎がディオの「天国へ行く方法」のノートを焼却
- ディオの息子ヴェルサス誕生?(2003年以降に13歳であったため推定)
改めてこうやって見てみると、ディオがその生涯の中で自由に活動した時期はとても短いことが分かります。吸血鬼になってからは数ヶ月で海の底に沈み、引き上げられてからは5年程度で死亡しています。
彼の直接的な悪行はそのわずかな時間に行われたことです。人生の中の数%だけです。生き急いでいる。まるでセミのようですね。ディオは地上に出てきたそのわずかな時間に、第五部の主人公ジョルノ・ジョバーナを含めて、少なくとも4人の子供を成しています。
ディオの人生の大半を占める海の底での100年弱の時間は、「いつ終わるとも知れない刑期」のようであったとも解釈できます。なぜならそれは、自分はいつか再び地上に上がることができるのかの確証がない中で、ただ時間を待つ日々であったと考えられるからです。
ディオは、その終わるかも分からない孤独な時間の中で何を感じ、考え、試みたのでしょうか?
第六部では、ディオがプッチ神父に残した「天国へ行く方法」が描かれます。その発動は、スタンド能力が契機となっていることから、具体的な方法が確立したのは、海の底から地上に出てスタンド能力を身につけたあとだと思います。しかし、もしかすると、その前段の「天国とは何か?」ということ自体は、海の底の100年弱の思索の時間の中で具体化したのかもしれません。
プッチ神父が語ったことによると、天国とは「あらゆる人が、自分の運命に対しての覚悟を持つ世界」です。自分の人生の全てがあらかじめ決まっていることを精神で知り、それを受け入れ、自分の身にこの先起こるどんな困難も、変えられぬ定まった運命として覚悟して受け入れるからこそ、そこに幸福があるという話です。あらゆる人が暗闇で未来に怯えるのではなく、生まれながらに覚悟を持ち、自分の運命を受け入れた世界こそが幸福に満ちた天国なのです。
これがディオの考えたことだとすれば、ディオは何を思ってその考えに至ったのでしょうか?
多くの場合、答えの裏側には対応する苦悩があると思います。答えとは、その苦悩を乗り越える手段であると考えられるからです。であるならば、この天国を裏返せば、ディオの抱えていた苦悩が分かるのではないかと思いました。つまり天国の幸福の逆、地獄とは、不幸とは、「自分の運命が分からないこと」、「それゆえに運命への覚悟ができないこと」であるということです。
そう考えたとき、いつ終わるとも分からなかった海の底での100年弱は、「天国」と真逆であると考えられます。仮に100年で確実に引き上げられるという運命が分かっていれば、そこまで頑張る覚悟ができたかもしれません。
しかし、いつまで続くか分からない暗闇の中で、吸血鬼であるがゆえに死ぬこともできずにただ待ち続けることの苦しみが、もしかするとその時のディオにはあったのではないでしょうか?ことによると、海に沈む前の自分自身の選択を疑ったかもしれません。
ここで書くのは全て僕の妄想ですが、ディオが海の底の孤独の中で「もしあのときああしていれば…」と考え、自分の人生について後悔の気持ちをわずかでも持つことがあったとすれば、それは、強烈な自我を持つディオの人生において、消えない汚点になるのではないかと思います。なぜならばそれは、ディオがディオであることを疑うことだからです。
そう仮定すると、ついに海の底から引き上げられたときに、ディオは「このタイミングで助かると分かっていれば、自分を疑わずに耐えられたのに」と思った可能性があります。つまり、覚悟ができていれば後悔はなかったということです。海の底での100年も、あらかじめそれが起こることが分かっていれば、自分を曲げずに耐えられる覚悟が生まれます。そう考えれば、それは後にプッチ神父が語った「ディオの天国像」と一致します。
ちなみに助かるすべなく考えるのをやめて漂っている第二部のカーズも同じ不幸の中にいますね。場所が宇宙と海の底の違いはありますが。カーズもその運命が分かっていれば、暗闇の中で考えて諦めるのではなく、覚悟があればよかったのではないかという話になります。第六部の最期でそうなっていたのでしょうか?
セミは自分の一生のことをどれだけ分かっているのでしょうか?土の中で何年も暮らす中で、自分がいつか地上に出て成虫となり、異性のセミと子を成すことを知っているのでしょうか?セミは親から教わらずとも空を飛べます。もし彼らがそれを知っているのであれば、セミもまた天国にいるのかもしれません。
そういえば、「親から飛び方を教わっていないツバメは短命」だとプッチ神父はジョースターの血統を語りました。ならばジョースターの血統はセミではありませんね。
セミが長く地中で暮らす理由として挙げられるのは、外敵や環境変化から身を守るため、また、栄養となるものの少ない地中では、育つのに時間がかかること、また、短期間に一斉に地上に出ることが生殖上有利、などが挙げられます。
ディオは海の底に居ることで、その間に現れて倒された柱の男たちや、波紋の戦士たちがもうほとんどいない時代まで生き延びることができました。そしてまた、100年の孤独な思索の中で精神的な成長も遂げたと言えるのではないでしょうか?僕はこの話を無理やりしているという自覚はあります。
アメリカには素数ゼミと呼ばれるセミがいて、13年と17年という素数の周期で地上に出てくるそうです。それは、2桁の素数という他の数字との最小公倍数が大きくなる周期が生き残る上で有利だったという説明を読んだことがあるのですが、プッチ神父は素数を「1と自分の数でしか割り切れない孤独な数字…私に勇気を与えてくれる」と表現します。
プッチ神父もディオも孤独な素数でセミであったならば、その2人が重なり合う最小公倍数というめったにない出来事が起こった奇跡が「天国へ行く方法」を成立させたと言えるかもしれません。
結論としては、ディオは孤独な素数ゼミ、プッチ神父も孤独な素数ゼミで、ディオの海の底での長い時間はプッチ神父という友と出会う上で有効に機能しました。
「勝利して支配する」ことを是としたディオは、裏返せば「負けて支配される」ことを忌み嫌った人間であると言えます。地上に出てきたディオが、多くの仲間を作り、子を成したことは、100年の孤独の経験から来ており、彼の持っていた弱さなのかもしれません。
彼の精神が、何にも負けないこと、何かに支配されないことを突き詰めた先にあるのが、覚悟を持って全て自分のままに生きていく天国であり、それが100年の海の底の時間を経ることで得た「思索」と「友との出会い」がなければ実現しなかったのであれば、ディオの人生はセミでなければならなかったのでしょう。
余談ですが、ジョジョは特に第五部以降、運命などの言葉で表現される決定論的な世界への引力に抗うことを描き続けているように思います。ブチャラティは自身の変えられぬ死の運命に対していつか目覚めるかもしれない眠れる奴隷として生き、プッチ神父は運命を覚悟することを幸福と考え、それが破壊される様子が描かれました。第七部では、最初にハンカチをとり唯一の運命の主導権を握ろうとする戦いと、一巡前から繰り返されるそれぞれの登場人物の運命とその変化が描かれます。第八部では厄災という人が避けようがない不幸と、それを乗り越える姿が描かれました。
各部の主人公であるジョジョは、そのような予め決まっているどうしようもない運命に対して、抵抗する存在として描かれているように思います。特に第八部では、星形のアザはその象徴であり、どうしようもないものに対する唯一の対抗手段であるように描かれています。
ディオが最終的に自分の運命を自覚して受け入れる「天国」を望んだ一方で、ジョジョたちはそんな運命に抵抗する姿を見せ続けています。その意味で、ディオとジョジョは、敵役と主人公としての対比があると言えると思います。
ディオはセミだが、ジョジョはセミであってはならず、だからこそジョジョは主人公なのではないでしょうか?








