どうもこんにちはえのきです。
みなさん再読・再視聴ってしますか?
私はかなりする方でして、エヴァシリーズやアイドルマスターシリーズ等、気に入った作品を「あー、そろそろ触れなおしたいな」と思った時に無限リピートする時があります。
初見で好きな作品に出会った時とはまた違う心境で触れ直すことが出来て、「ああ、このシーンってこういう意味だったんだ」とか「初めて触れた時は全然共感出来なかったこのキャラクターの心情、今はわかるかも!」という体験はまた違った魅力があります。
そんな感じでここ最近、私は『グラップラー刃牙』シリーズを触れ直してました。
上記シリーズ、『長期連載故のダメな点』を挙げられることの多い作品でもあります。
・新シリーズが出るたびに「前のシリーズは面白かったんだな」と思わせる凄い漫画
・あのキャラクター好きだから絶対に再登場しないでほしい、噛ませになって格が下がるから
・逆張り
とか言われがちなところがあります。
私もトータルでは「うーん、最終全部好きといえば好きだし、個人的に一番好きなやつは『範馬刃牙』だけど正直・・・わかるよ」という作品シリーズでもあります。
『格闘漫画』という括りで見た時に『グラップラー刃牙』は間違いなく金字塔と言える作品なのですが、続編である『バキ』から徐々に「そもそも勝ちって何? 何を持って負けとするの?」「最強ってそもそも重要なの?」みたいな視点が入り乱れ、週刊連載という性質と相まって描かれているうちに露骨に「これについて掘り下げようと思った/このキャラをライバルにしようと思ったけどやっぱやーめた!」と予定と違う展開になったことがわかる瞬間があり、評価が分かれるのもやむなし・・・という作品群でもあります。
しかし、不思議なものでそれ故に私は『グラップラー刃牙』シリーズを折りに触れて再読しているのだな、と思います。
連載の時の良い意味でも悪い意味でも生じるライブ感、露悪的に表現すると
『整合性の無さ』『行き当たりばったり』
でも、そういった要素が再読する際にむしろ重要な要素として結果として機能するんですよね。
最近読み返していて特に注目していたのは『勇次郎の人間性の変遷』です。
『グラップラー刃牙』シリーズは第三シリーズである『範馬刃牙』の親子喧嘩まで作品の縦軸として『主人公である刃牙とその父、地上最強の生物と評される範馬勇次郎の対立』が存在しています。
第一作である『グラップラー刃牙』では悪、暴力性の象徴であったような勇次郎がシリーズを経ていくに連れて、徐々に父親としての側面を、刃牙自身もまた勇次郎を『地上最強の生物』ではなく『範馬刃牙の父親』として視点がスライドしていき、それが一つの結実として第三シリーズである『範馬刃牙』は『親子喧嘩』として幕を下ろします。
シリーズ開始時点で何かしらの形で『親子関係』に蹴りをつけることは想定していたと思うのですが、読んでいて『バキ』あたりから明確に『親子』という要素にフォーカスしていったな、というのがリアルタイムじ時の読者としての印象でした。
ただ、ここのところ再読の時により意識したのは『ライブ感ではなく一旦全て一連の流れと仮定して読む』ということでした。
勇次郎は初期故にかなり強さ描写であったり、人物描写にぶれが生じるキャラクターであるのですが一旦それをメタ的な周辺情報をあえて無視して『一人の人間の人生』として再読する。


自分の中で「キャラブレだなぁ」と思ったところも「勇次郎はどういう心境だったんだ?」と再解釈する。
これがとても面白い。
「あー、気づいてなかったけどもしかしたら当時の自分が思っていたよりも細かく意識していたのかな」とか「時系列で考えるとむしろ一貫しているのかも」などと気づくことがとても多い。
朱沢江珠という起点
勇次郎の変遷を捉え直す時に欠かせないのは勇次郎の妻であり、主人公刃牙の母である朱沢江珠です。
第一作の『グラップラー刃牙』の作品内の時系列は連載開始時点では刃牙が地下闘技場のチャンピオンである現在、途中で刃牙の幼年期編へと映り、勇次郎との因縁が明かされ、再び現在の時間軸にもどり最強トーナメント編へと移っていきます。
そのためシリーズの中で一連の流れで描かれる時系列としては幼年期編が初めとなります。
朱沢江珠は悲劇的でありながらエゴイスティックなキャラクターです。
彼女の華々しい結婚を前に勇次郎は現れます。圧倒的な暴力によって彼女の当時の婚約者を殺し、そしてその暴力故に朱沢江珠の心をも奪い、刃牙を産みました。
朱沢江珠は母としてではなく、勇次郎の妻という『女』である自分を重視する人格の人間として描かれます。
息子である刃牙への愛ではなく、勇次郎に対しての捧げ物として刃牙を鍛える環境を整える。刃牙は母の愛欲しさに自らを鍛え抜く。
幼年期編終盤、刃牙と勇次郎は決闘を行います。
残酷な構図、立ち合い直前に語られる関係が朱沢江珠と刃牙の関係と言えるでしょう。
そこで、描かれる試合は一方的な勇次郎の勝利、そしてそのまま勇次郎が刃牙を殺そうとしたその時、朱沢江珠は勇次郎の前に立ちはだかります。
『女』ではなく『母』として。刃牙を守る、そのために。
結果、そこで死ぬのは刃牙ではなく朱沢江珠となります。
幼年期編終盤の悲劇でありながら、刃牙が勇次郎を倒そうと背中を追い続ける起点です。
そして、勇次郎という『人間』を考えようとした時に、朱沢江珠の殺害は勇次郎のジレンマの起点でもあります。
その後の勇次郎
刃牙と勇次郎の関係はそれ以後、徐々に変化していくのが最強トーナメントや『バキ』では描かれます。
まだ最強トーナメント時点では『地上最強の生物』としての隔絶したエゴイズムが目立ちますが、『バキ』からはそれまでの勇次郎像とは少しズレた『父親』としての勇次郎が徐々に顔を覗かせます。
梢との同衾に突然現れて祝福したり、擂台賽編では同じチームになり共に並び「学べ、バキ」などと教えを行う振る舞いが垣間見えます。






もちろん、幼少期編よりさらに前の本編では描かれていない時系列ではある程度勇次郎からバキへの手解きをしていた描写はありますが、朱沢江珠殺害という決定的な対立のきっかけ以降では特に大きな描写といえます。
それらの描写は『範馬刃牙』で親子喧嘩に向けたバキからの問題提起を受けての勇次郎の態度の変化でより顕著になります。


この流れ自体は、物語の中心の流れであり、読者にも明示的に描かれている描写です。
しかし、再読で感じたのは「そもそも勇次郎の変化は『グラップラー』時代に既に複数あったのではないか」ということです。
ある意味で、フラットな勇次郎を読者はほとんど過去回想という形でしか知らないのではないか、という疑問です。
振り返ってみると朱沢江珠殺害後、勇次郎の振る舞いは少しだけ異質です。
(あくまでシリーズ全体を振り返ってみて、というところではあるのですが。)
朱沢江珠殺害後、その場で試合を観戦していた格闘家達を全員薙ぎ払い、憂いを帯びた表情が描かれます。


戦った相手には容赦をしない、という点でほぼ決着のついたバキを殺しにかかった点については比較的納得性のあるムーブではあるのですが、勇次郎の友人であるメンバーまでボコボコにされており、ほとんど八つ当たりです。




そして、親子喧嘩で描かれるように勇次郎自身、刃牙に触れられたくないような機微があった、というのが察せられます。
そして幼年期編での刃牙への執拗な追撃を見るに、『グラップラー刃牙』内の序盤、時系列でいうところの現在の勇次郎は既に序盤からギャップがあります。


本部戦ではアスファルトではなく土の地面である公園を場所に選ぶ、結果として殺害するとはいえ、立ち上がるまで独歩戦では殺傷前に試合を切り上げようとする。
天内に関しては例外となってしまいますが、戦うもの全てを殺す、ではなく獣の価値観ではなく、勇次郎の価値観にそっての振る舞いとなっているように思えます。




そういった一つの流れとして見た時の違和感は『範馬刃牙』の終盤、親子喧嘩での「死ぬなよ」に集約された、と見ることが出来ます。
ドレスとハグのシーン






自らの妻である朱沢江珠を葬った力を息子である刃牙へと向ける。そこに愛があることはそれまでのやり取りで雄弁に語っているにも関わらず。
親子喧嘩で描かれるのは勇次郎の『弱さ』です。
『地上最強の生物』であるが故に、それ以外の存在として生きることが出来ない、道を変えることができない弱さ。
だからこその葛藤がそれまでの行動の違和感だったのではないかと思うのです。
朱沢江珠を「なんていい女なんだ」といったのは掛け値なしの本心だったのでしょう。
それでも、『地上最強の生物』として自らに挑んできたものを如何に好意を持っていたとしても迎え撃ち、打ち倒さざるを得ない絶望。
この視点で見た時に『勇次郎』との戦いの前に用意されたライバルがピクルであることにも思想的な納得性が見えてきます。
相対したものを喰ってしまう、好意的な存在を葬ってしまう悲しみという点で勇次郎とピクルは同じだからです。




なぜ勇次郎は負けを認めたのか
『親子喧嘩』の決着は勇次郎がエア味噌汁、刃牙の炊事場に立って欲しいという要求に従った、すなわち勇次郎の我を曲げて刃牙の我を通したから、と説明されています。
それ自体真実ですし、これまでの曲げられない、勝たざるを得ない勇次郎の弱さからというのはわかります。
ただ、上記のような流れを踏まえるとよりこの一連の流れのエモーショナルな点が響いてきます。
ある意味で、『親子喧嘩』とは『地上最強の生物』である個としては完全無欠であった存在の勇次郎を『父親』という家族の枠組み、『子』という存在があるからこそ立脚される存在へと再定義、あるいは引き戻すための戦いなのです。
『地上最強の生物』である勇次郎の生き方は朱沢江珠の語る対立するものを打ち倒した後は決して追撃を緩めない。暴力の化身である生き方。
『父親』である勇次郎はまだ未定義です。しかし、刃牙の思い描く団欒。現在の日本でも決してそのロールモデルは一つではないですが、勇次郎が引き寄せられているのは刃牙の意識する父親像です。
その無自覚に惹きつけられる様は、自覚しているのか無自覚かは曖昧ですがかつての朱沢江珠が刃牙に母性を垣間見た時と重なります。
その『父親』像は勇次郎が自分自身に課している『地上最強の生物』とは異なります。
産まれた時、本来であれば母親から与えられるはずの母乳ですら勝ち取ってきた生である勇次郎。それであるのに刃牙へと『与える』ことが増えていきます。
戦うための技術や、会話、そして食事。
親子喧嘩直前の食事は勇次郎からすれば与えられてばかりではフェアではない、という考えでしょうが実態としては食事に招待すること自体異常自体と言えるでしょう。
しかし、綻びとしては上記したようにあらゆるところに連載初期から現れており、複雑な人間像を描いています。
だからこそ、一見ギャグのようで(まぁギャグとして受け取る流れももちろん当時ありましたが)いて、真に迫るやり取りなのではないでしょうか。




そして勇次郎の明確な弱さ。手こずれない、という弱音。
これはかつて語られた死刑囚達の孤独であり、弱さと重なります。死刑囚達は最凶ではあっても最強ではなかったが故にそれぞれの敗北を得ることになりましたが、勇次郎は圧倒的な強さ故にそれに到達することが出来ない。
ここで少しだけ最凶死刑囚編が描かれた『バキ』ではまた一つ勇次郎の憧れるものが描かれています。


弱者故に、強者へと立ち向かうという気高さです。
『バキ』における「敗北とは何か?」という問いはらいたいさい編で「武とは何か?」というスライドが起こり、『武とは強者へと立ち向かうためのもの』(故にずるきもの)という結論になります。


その気高さに敬意を示す勇次郎ですが、自らの『腕力家』である野望達成の後はある種の空虚さを抱えていたものと思われます。
そして至る朱沢江珠との別れ。


勇次郎の内面は解釈するしかありません。
朱沢江珠を殺した時のこと、多くの格闘家と試合してきた時のこと。
それらは想像の上でしかありませんが、やはり言葉を当てはめるとすれば『空虚』だったのだと思います。
生きている甲斐のない、ただ『地上最強の生物』という称号を遂行するための存在。
バキが『親子喧嘩』でどこまで意識していたかはわかりません。言葉も尽くしていましたが範馬家で尽くされるのは言葉以上にその力と力なのですから。
それでも、バキが勇次郎と戦うこと。一筋縄では勇次郎に葬られない存在である、ということはそれ自体が勇次郎への救いであり、否定です。
『地上最強の生物』を遂行する存在であった勇次郎に「あんたは俺の『父親』だろ」と別の道を示す、それがバキが親子喧嘩で発していたメッセージであるように思うのです。
そう考えて読むとほぼ決着がついた後に闘志そのもので勇次郎に挑み続けるバキのシーンがあまりにも見ていて苦しいです。


『最強の生物』として去ろうとする父を立ち上がれないほどにダメージを負いながらも人間へと引き戻す。
それはかつて朱沢江珠を葬った後の戦いのifです。
あの時、勇次郎が『地上最強の生物』を真っ当してなお、朱沢江珠が生きていたら? もしそれでも勇次郎に愛を持っていたら?
全ては仮定の話でしかありません。朱沢江珠は死んでいる。もう帰ってくることはない。
それでも、バキは生きているのです。
そしてなおも勇次郎を引き止める。刃牙を殺さない限り、決してその戦いは終わらない。
だから勇次郎は折れるのです。
「もういい」と。これ以上は続けられないと。
それは勇次郎自身が遂行し続けてきた『地上最強の生物』としての生き方を自ら捨てた、瞬間です。
エア夜食、エア味噌汁はそれ故に、勇次郎の我を曲げた証左と言えるでしょう。




と、まあそんなことを刃牙シリーズを読み返すたびに考えます。
まだまだ刃牙シリーズの人間像は板垣先生のリアルタイムでの変化も反映されている気がして、それ故にいくら読んでも飽きない魅力があると思います。
まだまだ刃牙シリーズについては順を追って触れていきたいところ(『バキ』での「敗北とは何か?」→「最強より最愛」→「暴力と武」→「武とはずるきもの」といったテーマの変遷など)なので、「こういう前提で考えると刃牙道とかバキ道で描きたかったことってさァ!」と語りたくなるのですが今回はこれくらいで。
もし書けるようならまた書いてみたいなと思います。
それではまたお会いしましょう!
おまけ 流浪の民たちの祈り描写について


本筋とちょっとずれますが『親子喧嘩』で祈りに来た流浪の民たちは刃牙が『地上最強の生物』ではなく『父親』と引き戻す流れの強化のためのシーンなのだと思います。
勇次郎は『地上最強の生物』であるが故に、モハメドアライのようにはなれないと思っている。だから尊敬する。という機微があります。
勇次郎は自負として『地上最強』というエゴがあり、そしてそれを証明してきた存在です。
刃牙シリーズで語られる『強者へと挑む』といった描写は生じ得ません。
しかし、そうでしょうか?
あらゆる世界で『強者』として振る舞う者との戦いを求めつづけた勇次郎が独裁者や圧政をしく存在と戦わなかったのか?


そんな疑問に対しての別解としての提示が流浪の民なのだと思います。
勇次郎自身は意図していなくても、自らが規定していた『地上最強の生物』ではない結果を残している。それは同時に勇次郎にとって別の道があるという証左となります。
だからこそ、『親子喧嘩』で挿入されたのかなと。(当時は「ハァ?」ってなったのは許してください……)でもあの壁画はいまだによくわかってねえけど!!
そんな感じです。ではでは。