大人と子どもの破滅的よろめき、君は『私の少女』に何を見るのか

人間無骨

大人が子どもに手を出すのは虐待であり犯罪です。

そんなの当たり前のはずなのに、その一線を越える輩は後を絶ちません。

また『手を出す』というのは暴力に限った話ではなく、ロマンチックな関係になることもまた、優しい虐待なのです。

子どもは選択肢の少ない閉鎖的な世界にいて、だからこそ大人は責任をもって距離を保つ必要がある……んだけど大人と子どもの関係性ってワクワクしちゃうよなぁ!?

大人のモラルが高いほどに、そのよろめきにはコクが出ます!!

そして我々は大人と子どものよろめきをフィクションという安全圏から啜っていける妖怪なのさ……!

この手の話題ならレオンは絶対に外せない。ジャン・レノは当時40代で、ナタリー・ポートマンは当時12歳!

さて、今回のよろめきはチョン・ジュリ監督『私の少女』です。

本作が監督の長編デビュー作となりますが、ちょうど本邦では実際に起きた過労自殺事件を題材にした『あしたの少女』が公開中! 

こちらも本作と同じく、搾取される子どもをテーマとなっています。

https://ashitanoshojo.com/

海辺の村に赴任してきた警官のヨンナム(ぺ・ドゥナ)は、少女ドヒ(キム・セロン)と出会う。ドヒは血のつながりのない継父ヨンハ(ソン・セビョク)と暮らし、日常的に暴力を受けている。村全体が暴力を容認しているなか、ひとり立ち向かっていくヨンナムは、ドヒを守ってくれる唯一の大人だった。ヨンナムも少女の笑顔に癒されてゆくが、やがて激しく自分に執着するようになったドヒの存在に少し戸惑いを憶える。ある日、偶然にもヨンハはヨンナムの秘密を知り、社会的に破滅へと追い込んでゆく。ヨンナムを守るためドヒはひとつの決断をするが……

虐待を受けている少女と傷心の警官という組み合わせから既に破滅の匂いが漂います。

家庭に問題がある子を大人が拾う……というのはよくある展開ですが、本来被虐待児の保護は司法の仕事。大人はしかるべき機関に連絡しなきゃいけません。

しかし、ヨンナムは警察官。この時点で退路は断たれているのです……!

閉塞した世界

虐待は家庭という密室の中で行われます。
プライベートな空間だからこそ、何をされているのか分からず、また他人の事情に首を突っ込みたくないという心理が救いの手を阻むわけです。

さらに私の少女の舞台となるのは田舎の漁村。顔見知りだらけのねっとりと濃い人間関係と古い価値観が煮凝った社会空間です。

日本でも馴染み深い田舎の光景。
こちらも田舎あるある。町内宴会。近すぎる人間関係。ヨンナムはこういうので最悪な気分になる人種だ

二重の密室から逃れる術も、受け入れられる術もなく、ドヒは消耗させられていきます。それは彼女だけでなく、この作品では排斥された人々が物語の中心にあります。

ドヒは父と血の繋がりがなく、母にも捨てられた少女です。虐待も半ば公然と行われているのに誰も手を差し伸べることはありません。

継父のヨンハの虐待を、祖母はただ傍観する……。
もちろんババアも虐待する。ドヒに逃げ場は無い。

ヨンナムは『とある事情』から田舎に飛ばされた余所者です。村人との距離は埋めようがなく、彼女は埋めるつもりもありません。

村では外国人労働者が飼われています。どう見ても真っ当な扱いではないのに、彼らもまた労働力として見過されてしまいます。

この状況で、つまはじきにされた少女と余所者の女が身を寄せ合うのは当たり前の流れだったのかもしれません。

私のドヒちゃん

継父からヨンナムの元に身を寄せたドヒは、ヨンナムと暮らすことに。
あくまでそれは保護であるはずなのですが、これがやたらとインモラルです。

最悪の環境で育ったドヒはヨンナムに依存することしかできません。ではヨンナムが彼女を拒みきれないのは何故? ドヒには他に行く場所がないという状況を言い訳にして二人の距離は異様に近くなっていくのです。

良識ある大人は保護した子どもに食事をさせる。
良識ある大人は子どもと風呂に入らない……
ヨンナムと同じ髪型にするドヒ。好きな女と同一化しようとするのって厄いよね

そんな危うい関係に『待った』をかけるのが中盤から現れる女……そう、ヨンナムのカノジョです。

ドヒとヨンナムの同居生活に彼女が現れるところは、ラブコメならばライバル登場!で次巻に続くところですが、私の少女はラブコメではなく、ゆえに状況もまったく違ってきます。

そもそもの発端、ヨンナムが田舎に飛ばされたのは、彼女が『同性愛者』だからだと、明かされるのです。

残念ながら韓国でも同性愛をタブー視する考えは(映画公開当時も、現在でも)根強く、警察という国家に近い組織で排斥されるという描写にはリアリティがあります。

さらには同性愛者であることが『告発』され、ヨンナムの立場は暗転します。
ヨンナムはドヒに手を出していたのではないかと疑われ、拘束されるのです。

継父は酒を呑んではドヒを虐待する男でしたが、ヨンナムもまた酒を常飲しています。それも、自分自身を誤魔化すように酒を瓶から飲料水のペットボトルに変えて。

入浴中も飲酒! 基本的に家ではずっと飲酒!

彼女はいつでもそちら側に転びうる存在だったのかもしれません。

密室の中で行われたことは推測でしか語れません、捜査官の心ない言葉はそのまま我々にも牙を剥きます。

――お前達も、ヨンナムとドヒを『そういう目』で見ていたのだろう?

 子どもを搾取するおぞましさ、偏見(バイアス)のある目で相手を見ることの醜さが我々の中にもあるのだと『私の少女』は突きつけてくるのです。

人形を使って『何』をされたのか聞き出すシーン。ドヒが人形にされていたという含意も感じられる。

私は大人と子どものよろめきを啜る妖怪なのでこのシークエンスが一番効きました。
そもそも、よろめき目当てでこの映画を観ようと思ったし……

二人はどこへ行くの?

ただ、捜査官の謝罪は彼女の冤罪のみに向けられ、同性愛者への偏見が撤回されたわけではありません。

同時に継父が逮捕されたことでドヒは依るべき家庭を完全に失い、解放されます。

そしてヨンナムも田舎から都会に帰る時が……。

施設行きになるであろうドヒ。大人としてヨンナムがすべきは、彼女を励まし、そして時には連絡を交わす程度の距離感を保つこと。

しかし――村を出る間際、港に佇むドヒを見つけてしまったヨンナムの言葉は『私と――行く?』というものでした。

大人らしからぬ、ずるい言葉だ。ドヒがなんて答えるのか、分かっているくせに。

そのままドヒとヨンナムは雨の中、車という密室に二人きりでどこかへと走り去っていきます。

一度は解放されたはずの密室に、二人は戻っていくのでした。

閉鎖的な価値観の罪や他人を消費し、その内面を勝手に推し量ることへの批判とは別にドヒとヨンナムの関係性が危ういまま終わるところに『私の少女』の魅力があります。

ある種のお説教であるメッセージ性と同時に、理想的な関係性を知りながら、そのように割り切れない人間のよろめきを描く――そのせめぎあいがドラマだと私は思っています。

ドヒとヨンナムは一緒にいるべきだったのか?

その答えは映画を観てから出してほしいし、ついでに大人と子どものよろめきを啜っている自分自身を内省して胸を抉られてほしいですね!

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