――東京から万博に通ったオタクが辿り着いた「ささやかな希望」


2025年10月13日、夜。万博最終日。
大混雑の中、人数規制されながらも何とか登った大屋根リングの上で、私は座り込んでいました。
まだ昼は暑かったですが、日が落ちると冷えました。大屋根リングの上の芝の部分はしっとり湿って冷たかったので、万博で買ったミャクミャク柄のレジャーシートを敷いて寝転びました。
遠く、大屋根リングの対岸では最後の「アオと夜の虹のパレード」公演。夜空に幻想的な虹が浮かんでいます。斜め下の大阪ヘルスケアのステージで、コブクロの『この地球(ほし)の続きを』が聴こえてきました。聴こえる位置だった、良かった。この大屋根リングの東ゲート近くの芝生は、万博で最後に過ごす場所として、遠くでも全てが見れるように選んだスポット。
大げさなと思われるかもしれませんが、万博を楽しんだ人にとって万博最終日の過ごし方「地球最後の日の過ごし方」を考える事と同義でした。それほどにこの半年だけのお祭は、特別で劇的な場所であったと思います。
いつものドローンショーの後にサプライズで夜空に現れたミャクミャク。こちらに手を振って別れを告げている。悲しみと足の痛みで芝生にゴロンと落ちながら呆然としていた私も、ばっと立ち上がりました。そこかしこからすすり泣きと歓声が聴こえた——。世界、終わった。


その数日前、私は東京から「最後の遠征」に出ていました。東京から細かく大阪に通う事は流石に不可能で、万博ラストの一週間はずっと大阪に滞在し、可能な限り毎日夢洲へ通いました。
この頃になると混雑は激化し、通期パスがあっても入場する事はできません。どうするかというと、前日に徹夜し、朝方に法則性を持って現れる僅かな空き枠を世界時計を見ながら秒単位で入場の権利を狙う。




万博に行くだけで凄い疲れるのに、行くために前日に徹夜で何度もポチポチしないとならない。何を言ってるかわからねえと思うが‥‥私にも今でもわかりません。
入場予約がどうしても取れなかった日は、諦めてユニバに流れるという、思い返しても正気ではないスケジュール。全てに置いて万博優先に動いてはいましたが、ハロウィンシーズンのユニバも大好きなのでやぶさかでなし。


この半年間の替え難い「祭」は、あまりにもコンテンツが膨大だったため個人の体験に再現性がない。なので、一人でも多くの人が万博の記録を遺した方がいいと考えますので、少しでも記して置こうと思います。これは、東京から新幹線で17回通い詰めた個人の記録です。開幕時牧歌的な空気から閉幕のカオスまでを全身で浴び続けた一人の万博好きとして、そして最後に残った「希望」について記しておきたいと思います。
万博とは今までの人生経験値が試される「人生の期末試験」でのようだった
言うまでもなく、大阪・関西万博はただパビリオンを見るだけの静的な展示会ではありませんでした。あらゆる体験、学習、国際的な文化交流、買い物が出来る、この世の全ての分文化に出会える夢の都市でした。なのですが、全ての体験を得るには根性が要りました。根性というか、マルチタスク力、テック力、情報力、瞬時の判断力、居住地の運、そして体力、財力、知力、人生を楽しもうとする力を極限まで試される、人生の期末試験の様相でした。
脳汁溢れる「予約戦争」
この人生ゲームの最もハードコアなコンテンツ、それが「パビリオン予約」です。 これはもはや早押し合戦の領域でした。
勿論、そのパビリオンでの体験が素晴らしいから、体験したくて予約しているのですが、一度の体験人数や人気によって、予約が必要なコンテンツの予約そのものにレアリティTiarが発生していたのです。
例えば、モンハンはSSランク。狙って取れるものではありません。祈るしかない。
null2は高い人気と狭いキャパですが、パビリオンプロデューサーの落合さんがSNSの声を聞いて様々な入りやすい施策を施してくれていました。Sランク。
特に終盤戦、パビリオンどころか万博への入場予約そのものが高難易度コンテンツ化してからの日々は凄まじかった。 そもそも三日前予約で夜遅くに予約戦争しているのに、来場日の2日前の朝5時あたりからセッション維持、予約枠が解放される7時まで粘った記憶があります。PCとスマホを総動員し、ブラウザのウィンドウを10個展開します。それぞれのセッションがタイムアウトしないように定期的にリロードして維持しつつ、手元には秒単位まで正確な世界時計を表示させる。ただ万博に行きたいだけなのに、何をさせられていた??
6時59分40秒くらい。 そこからは、指先だけの戦いです。 エラーが出たタブは即座に「死にタブ」として切り捨て、うまくサーバーに刺さった一発の窓に全ての処理能力を賭ける。勿論連続で遠征している私はパソコン前で長時間待機が出来ず、不利となりました(そして、ユニバへ……)。
そして、画面に「予約完了」の文字が出た瞬間。 あの時に脳内を駆け巡る脳汁の量は、ソシャゲでSSRを引いた時や、激レアなドロップアイテムを拾った時の比ではありません。「取れた……!」と叫びながらガッツポーズをするあの瞬間。これが万博がある限り行われました。万博の終了は悲しいですが、「解放」とも言えます……価値があるものが目の前にある限り追わないと気が済まないから……。
当日予約システムもあったので、万博で久しぶりに大阪の友人と会ったときも「積もる話をしたいんだけど、当日予約を取れてから……!」とお互いなり、パビリオンや食事体験中も当日予約に頭を支配されています。


万博に行くたびにチケット戦争に参加している事人生で一番クリックした半年」「予約ボタン連打で腱鞘炎が悪化」といった悲鳴と歓喜が入り混じったポストが溢れていました。全国で何万人もの人間が、同じ時間に同じサーバーへ向かって祈りを捧げている。この「共闘感」すらも、万博というゲームの一部だったのです。
経済効果という名の「巨大なゲーム盤」
私が個人レベルで「肉体を使ったオープンワールドゲーム」を楽しんでいる裏で、勿論社会という巨大なレイヤーでもゲーム盤は動いていました。私が新幹線に飛び乗り、大阪のホテルを取り、会場でお高めなご飯を食べ、パビリオンでしか買えない国際グッズや、ミャクミャクグッズを買い漁ったあのお金も、その3兆円の一部になっている。現地で無限の家族連れなどのお客さんがそれをやっているのを見ているので、より実感する。後半の万博の迫力はディズニーやユニバを凌駕しており、ショップの混雑などに唯一無二のお金の回り方を感じた。自分が「楽しく学んでいる」ことが、そのまま社会という巨大なエンジンの燃料になっている感覚。 個人の「推し活」が、国家プロジェクトという巨大な歯車を回す一部になる。悪くないかなという感じ。
客層の変遷――「ゲストがいない昔のコミケ」から「老若男女が芋洗いされる混沌」へ
17回通っていると、会場の空気が月ごとに劇的に変わっていくのを肌で感じました。あれは、一つの夢洲という夢の都市が生まれ、成長し、沢山の人間を笑顔にし、そしてもう二度となくなってしまう。私は土地や施設に感情移入してしまうので、不思議で寂しい体験でした。
初期:牧歌的な「文化の祭典」の空気
4月、雨の開幕日。 私はメディアをみないのですが、どうやらまだ世間が万博への過剰なネガキャンまみれだったらしい頃。万博に行ったと関東の人に言うと「万博って何があるの?」と言われていました。 この頃の会場には、独特の連帯感がありました。 空気だけ例えるなら、「10年前のコミケ」です。そこに好きで赴いている理解のあるオタクしかない的な。 そこにいるのは「お客様」ではなく「参加者」。スタッフもボランティアさんも来場者も、「これからここで何が起こるのか」を探り合いながら、一緒に祭りを作り上げようとする空気。見ず知らずのオタクたちが情報を交換し合い、互いに道を譲り合う。 「世界中から人が集まっているのに、全員が仲間」みたいな、本当に平和で、国際的で、牧歌的な空気が流れていました。 まだ未完成なパビリオンですらも、「これから更に楽しくなるんだー」という期待感に変換されていた時期です。


中期:情報戦と「推し活」のお祭
夏頃から、空気は変わります。 SNSでの情報共有が加速し、万博は「情報で殴り合うゲーム」へと進化しました。 「あのパビリオンのが予約制になってしまった、開放時間は……」「隠しイベントの発生条件」「ゲリラ配布されるポンチョが……」。 有志による地図や、効率的な回り方が確立されていく。それに、まだ万博に行ってない人が「万博よかったよ!」と発信した我々のような人間の発信を受けて、混んできた。まだ「皆が万博のよさわかってくれて良かった~!」と呑気に言っているくらい。そして、まだ情報をちゃんと取るだけで思い通りに回る事ができました。


私たちガチ勢は、いかに効率よく、いかに深く体験を回収するかという「推し活」のノリで会場を走り回っていました。 この頃にはもう、初期の「何があるんだろう?」という手探り感は薄まり、素晴らしいから攻略するぜ!という通期パスのリピーターは増えていました。それでもまだ牧歌的。


待機列で知らない方から飴ちゃんやたくあんを貰う事もしばしば。私も小慣れ感が出てきたようで、知らない大阪のおじさんやおばさんに良くどこに行ったらいいかきかれました。東京では全く話しかけられないタイプなのですが、流石大阪人。そして私より万博に来れる筈だろ大阪人。




お客さんが一番活き活きみえたのもこの時。私は万博のこの時期の「大人が目をキラキラさせてアナログの地図を見てテクテク歩いている」ところを眺めるのが大好きでした。他のテーマパークと違って、オタクばかりでも家族連ればかりでもなく、クソ暑い中攻略する気満々の野性の大人たちが童心にもどってワクワクゲートをくぐっているあの感じ。他では味わえませんね…。


終盤:「滑り込み勢」の狂騒




そして、10月。 もはや会場は混沌をきわめていました。でした。 駆け込み需要で膨れ上がった来場者たち。最早情報戦ですらなく、鍛え抜かれた私の指でも早押しに物理的に弾かれ、パビリオンに入場できなくなりました。混雑予測流石にお前ら今まで何してたんだ四月から万博やってたんだぞ、とは思った。


窓を無限に開いても全てエラーで弾かれます。万博独特の用語「押し負ける」(画面上は予約の空きがあるとでるが、会場のどこかの誰かに回線と早押しで負ける事。


1日20万人超えという、物理的なキャパシティの限界に挑むような人口密度。コミケの東館と西館を足して2で割ったような、人と熱気の塊。 そこには不思議な一体感がありました。
「もう予約とか取れないけど、この場所にいたい」「最後を見届けたい」。 理屈ではなく、感情で動く群衆。閉園時間を過ぎても帰ろうとせず、ウォータープラザの虹を見つめる人々。海外館が競い合うように毎晩DJをやっており、各所で狂ったように踊り続ける人々。
ちゃんと一つ一つをじっくり楽しむことは難しくなってしまいましたが、ある意味で、最も万博らしい、祭感。多様でカオスなエネルギーが爆発していたのは、このラスト数週間だったと思います。




反省点としては、「二か月前予約」というシステムがある関係で、四月に一度行ってから、次の動きが六月からになってしまった事。初期は二か月前予約が使える日に行った方がお得感があったのですが、今となってはとにかく空いている四月五月にまとめてウィークリーマンションとか借りてパビリオンだけでも制覇、後は気になるイベントにあわせて遠征が正解でした。ループ物の主人公だったらやり直すんですが……!
次のサウジアラビアのリヤド万博では間違えないです。
「私」が見た万博


ここで一度、視点をタイトルに戻してみましょう。 「大阪・関西万博とはなんだったのか?」という問いに対し、成果は沢山あると思います。
おそらく、
- 「未来社会の実験場としての成功」:空飛ぶクルマやIPS心筋シートなど、最先端技術の実証実験が行われ、日本の科学技術力を世界に示した。ロボットが楽しい。
- 「経済効果とインバウンドの回復」:関西圏を中心に大きな経済波及効果をもたらし、コロナ禍後の観光復活の起爆剤となった。信じられないくらいホテル高かったです。
- 「分断された世界の再構築」:160近い国と地域が集まり、対話を通じて平和へのメッセージを発信した。戦争より万博をして欲しい……。
- 「SDGsの達成への貢献」:持続可能な社会モデルを提示し、国民の環境問題への意識を高めた。あんまりわかってないけど全てのパビリオンが持続可能な……っていってたから多分。
など、私がざっとわかるだけでも沢山の齎しが発生しています。
でも、現場で楽しんだ私の「実感」は、こんな硬い言葉では収まりません。 私が現場で見たのは、もっと泥臭くて、原始的で、もっと人間的で、もっと「クソデカ感情」が渦巻く場所でした。ありていに言えば、老若男女の笑顔が皆キラキラしていたのです。
私たちが体験したのは、完成された未来の展示ではなく、「未完成な未来をどうにか運用しようとする現場の意地と善意」でした。 システムトラブルで止まるバス、炎天下でミャクミャクから配られた塩飴、AI翻訳越しに必死でコミュニケーションを取るボランティアの学生と外国人観光客。システムの穴で予約の時間が次のパビリオン予約と被ってしまい、とあるシグネチャーパビリオンの責任者という方が対応してくれたとき、凄く若い方で驚きました。そう、万博はシグネチャーパビリオンのプロデューサーをはじめ、若い大阪の人が沢山働いていました。 国際的な祭典で若い方に活躍の機会を沢山与えているのも凄くいいなと思った。
スマートな未来都市というよりは、「未来を作ろうと足掻く人間たちの性善説に文化祭」に近かった。私は心が洗われるおもいでした。
例えば「世界の分断の解決」。 高尚な会議室での握手ではありません。 それは、行列待ちの間に隣り合ったインド人家族と、言葉も通じないのに「暑いね(Hot!)」と言い合って扇子を貸し借りした、あの瞬間のことです。 ニュースの見出しにはならない、そんな無数の「微細な平和」こそが、私にとっての万博でした。


大人が入学し直す「教養の学舎」
この真の意味の「人生ゲーム」の中で、私が最も感銘を受けたのが、シグネチャーパビリオン「いのちのあかし」でした。 河瀨直美さんがプロデュースしたこの場所は、パビリオンというより”学舎”でした。
まずロケーションがいい。実際に廃小学校とそこを見守ってきた巨大な銀杏の木を移籍しています。中に入ると、誰もが懐かしさを覚えます。
更に奥には立派なシアターが。今あった見ず知らずの他人同士暗闇で向かい合い、突然「人生の深いところを語らざるを得ないテーマ」について語り合う、あるいはそれを見るという内容。 普通ならありえないシチュエーションです。 でも、不思議なことに、そこで語られる言葉は、10年来の親友とする会話よりも深く、重い事もあったと思う。
「あなたにとって、守りたいものは何ですか?」「ここ10年で変わったこと、変わらなかったことは?」
そんな人生に深く切り込まざるを得ない問いを投げかけられ、見知らぬ誰かが、ポツリポツリと語り出す。 映像がぷつんと切れた時寂寥感もありますが「私たちが聞けるのはここまで、この人の物語の続きは、この人だけのものなんだ」と突き返される感覚。
どんな人の人生にも莫大なドラマが詰まってるんだ、劇的なんだなと実感する。当たり前なのですが、どの方も懸命に生きていて聴いていて涙が込み上げてくるのです。
私は後半、ここでドキュメンタリーとダイアログを連続で篭って体験し、泣くことが有意義だと考え結構こもってました。 正直なところ、私は日常系より劇的なドラマが好きです。人の半生も、例えばクリエイターと事務員だったらクリエイターの方が面白いのではないか、というのが頭の隅にありました。当然、そんなことはない。どの人生も劇的。それを改めて学ばされました。


「人の知性を信じすぎている」とすら思うレベルで、万博はいきなり私たちを対話の海に放り込む。でも、その「信じすぎ」に、真正面から応えようとしてしまう自分がいる。
実際の古い小学校は、大人がもう一度入学し直すための学び舎として機能していました。大人になるとなかなか素朴な疑問に答えてくれる先生も近くにいませんよね。万博はみんな学生のようでそこら中で知的好奇心に赴き、質問をして良い。それも素敵だった。
大人にも広く堂々と学ぶ機会を設けてくれている場所、それが万博だったのです。
大屋根リングが繋いだ「円環」の真意
会場の象徴であった大屋根リング。万博の良さは枚挙に暇がないですが、通いこんだほど「一番良かったのは大屋根リングから見た景色」と言っていました。
世界中のパビリオンが並び、無数の人々が行き交っている。 リングは、そのすべてを「ひとつ」に抱きとめる装置でした。 どんな思想の国も、どんな宗教の人も、どんなに遠くから来た人も、一度このリングの下に入れば、同じ丸の中に収まる。円の外には日本企業が並びます。改めて美しい構造。
私は以前、万博開催すぐの記事で、万博がとても素晴らしかった事と同時に、正直な不安を吐露したことがあります。 ちゃんと万博で勉強した結果、食料はなくなるし、海はずっと人類に怒ってるし、「未来はちょっと怖い」と。
万博がはっきりと提示してくれたその不安が、半年の万博によって解消されたわけではありません。でも、同じパビリオンを巡り、同じリングの下を歩き続けた半年間の結果、私の中で決定的に変わったものがあります。
それは、「未来の解像度」と「他者への信頼」です。
大屋根リングの下で、言葉も通じない人たちが笑いあっていた所を見れた。 40度を越える灼熱の中携帯椅子をもって並ぶ人達。 「あ、人間ってまだ大丈夫かもしれない」と。 生身の文化を求める人間が集まる場所には、確かに温みのある「希望」がありました。
「少しだけ」という奇跡、あるいはゴミ箱の前の変革
閉幕から気付いたら時間が経ちました。万博に行ったからといって、突然聖人君子になれたわけでも、スーパーポジティブ人間になれるわけでもありません。
でも、不思議と万博のことを思い出すと、「明日もちゃんとしないとな」と思えるのです。
本当に些細なことです。 例えば、コンビニのゴミ箱の前。 以前なら「面倒くさいな」と適当に捨てていたかもしれないプラスチックの容器。 ふと手が止まります。 脳裏に浮かぶのは、万博会場で炎天下の中、笑顔でゴミの分別を案内してくれたボランティアスタッフさんの顔。私は家に持ち帰り、洗って、分別して捨てるとか。
今まで気にも留めなかった電車内で、ふと身体が当たった時夢洲に行く中央線の空気を思い出して、声を出して謝ってみるとか。
言うほどでもないことです。 でも、その「たったそれだけ」を、自堕落な私がやっている。 私は大人なので、人間が劇的に変わることがどれだけ難しいかを知っています。 だからこそ、この「少しだけ」の変化が、どれだけ尊いかも分かるのです。
もし、2,800万人の来場者全員に、この「少しだけ」の変化が起きていたとしたら?
子供たちが、少しだけ海外のニュースに興味を持つようになる。 「あ、これ万博で見た国の旗だ!」と、画面の向こうの出来事を自分事として捉えるようになる。
私を含めた自分の事で精一杯の忙しい大人が、少しだけ隣人に優しくなる。 行列で道を譲り合った記憶が、満員電車の殺伐とした空気を少しだけ和らげる。
誰かが、少しだけ環境のことを考えるようになる。 誰かが、少しだけ「対話」を諦めなくなる。
万博か、この不景気で閉塞感のある世の中に、みんなに「少しだけ」希望を与え、子供に「少しだけ」外の世界への扉を開き、隣人に「少しだけ」優しくさせた。
この「少しだけ」の積み重ねこそが、本当のレガシーなのではないでしょうか。
万博のパビリオンのデザイナーさんは言ってくれました。屈強な万博民、人こそがレガシーだと。万博はとても祝次的なところで、それは体験した人にしかわからない。それだけなんだか万博に行った人だけ得してるみたいなので、人にわけたいです。
番外1
私の本当のラストパビリオンは万博の外、ミャクミャクコラボルームでした。関西住まいで万博に50回以上行っている友人が「寂しすぎてミャクミャクコラボルーム一人で取っちゃったのでどうですか」と誘ってくれ、ありがたく滑り込みました。






番外2 欲しかったグッズ
シグネチャーパビリオンが好きすぎて、学者、アーティスト、教授など様々なプロデューサーの方達が説明してくれる回や、回遊しているPを発見するととても嬉しかったです。最終日のフラッグパレードでも、落合さんや石黒さんなどPの通った歓声はミャクミャクレベル。万博オタクにとってアイドルだったんですね。


なのでこの人間のアクスタが欲しかったです。こちら万博ガイドに載っているおそらく五年ほど前の写真です。推し活アクスタ向きじゃないですか!?!?!ポケモンのジムリーダーみたいで全員最高だ……。
夢洲に戻りたいけど戻れないから……次の横浜の花博、サウジアラビア王国のリヤド万博に向けてアップを始めるぞ~。



