学校における自分のカーストはナード、いわゆるオタクという位置にあることは理解していたが、生息するジャンルが特撮、ひいては怪獣であったため、オタクの中でもさらに狭い世界にいたことを覚えている。野球部やサッカー部のキラキラした御歴々に十把一絡げにオタク扱いされたとて、アニメもライトノベルも触れてこなかった自分は、オタクの中でもメジャーにはなれなかった。
そういう自負が影響したからなのか、時代を代表する傑作、義務教育に挙げられるような作品には一通り触れることないまま、成人を迎えてしまっていた。『コードギアス』を観たのも令和になってからだし、『遊☆戯☆王』のルールを知ったのもつい最近のことだ。その中でも、『涼宮ハルヒの憂鬱』はひときわ大きな存在だった。


インターネットをやっていれば、その名前もビジュアルも知らないなんてことはありえない。けれども、私は涼宮ハルヒさんがいったいなぜ憂鬱を抱えているのか存じ上げなかったし、そもそも最初の出会いはバニーガールの格好でライブをする彼女を捉えた違法アップロード動画で、彼女はアニメの主人公というよりは「ニコニコ動画の人気者」という印象だった。
私の人生に、涼宮ハルヒはいなかった。けれども、同世代のオタクたちの心には、彼女が強烈に心に縫い付けられている。さすがにもう、興味を隠しきれない。そんなわけで2026年2月、16年ぶりにリバイバル上映されるという『涼宮ハルヒの消失』を観るために、劇場に向かった。
後ろの席から「おれ映画館で観るの当時ぶりだわ」と聞こえてきて、サブスク全盛期にもかかわらず劇場に駆けつけてきたファンの熱量が本作の人気を物語っている。どこか自分が場違いなところに来てしまった、という気まずさを胸に、私はようやく涼宮ハルヒさんと出会ったのだ。今日はその感想を思いのままに書いていくので、読んでほしい。
ちなみに、どれくらい場違いだったかというと「公開日を勘違いしていたせいでTVシリーズを全く観ないまま『消失』を観に来た」くらいである。


いきなり『消失』から観て問題ないのか?と今こちらをお読みになっている先輩方のお気遣いには、ご心配なく、と笑顔で返すことにしよう。冒頭、涼宮ハルヒさんを中心とする彼女らSOS団の「日常」が描かれ、その上で主人公であり語り部であるキョンくんが直面する異常事態に対し、モノローグなり相手への問いかけをすることで、やんわりと作品設定が理解できるように設計されていた。
・涼宮ハルヒさんはおそらく世界の中心的な人物で、彼女にフラストレーションが溜まるとよくないことが起こる。
・小泉くんはハルヒさんを監視する機関のエージェントであり、朝比奈さんも別組織ではあれど事情を知り、未来から介入してキョンくんを助けてくれる。
・長門有希は宇宙人によって造られたアンドロイドで、たぶん彼女もハルヒさんの監視が目的。
これくらいのふわふわした前提で観ていても理解できるのだから、序盤に思わず面食らったキョンくんの過剰なモノローグにも、感謝しなければなるまい。本作『消失』は、彼が認識する世界の異常を発端とし、物語が動いていく。キョンくんの後ろの座席にいて、賑やかで忙しない日常のエンジンであったはずの涼宮ハルヒは、12月18日を境に世界から消失した。いるはずの人物がいなくて、いないはずの人物がいる。世界の異変を察知したキョンくんは長門を頼るのだが、彼女もまた「いつもの彼女」では無くなっていた。
TVシリーズや原作小説に触れていない身で断定するのもおこがましいが、キョンはおそらく、どこにでもいる普通の男子高校生に過ぎない。しかしその周りには現実離れした出自の人間や非人間がいて、彼ら彼女らが注意深く監視する涼宮ハルヒがなぜか自分を引き入れようとする。つまり、彼には出自ではなくそれ以外の能力、あるいは運命によって涼宮ハルヒの審美眼にかなうわけで、それが『消失』における彼の奔走する姿にあるのだろう。
数年前の七夕を契機とする、ハルヒとキョンの出会い(←推測)から始まった数奇な運命を、『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』よろしく過去の事象に自ら通りすがることでつじつまを合わせ、その果てに世界の行く末を選ぶ役割まで託される。涼宮ハルヒに関わったことで、普通の高校生が世界の命運を握るところまで引き上げられてしまう。キョンくんは思春期なりの自意識を総動員し、周囲と自分を比べてその個性の無さに悩んだかもしれないが、彼はもう立派な主人公にして、世界の中心の一人である。


そんな彼が、宇宙人も未来人も秘密機関のエージェントもいる世界を望むのは、むしろ当然の帰結と言えるだろう。この時、語り部である彼は読者(アニメなら視聴者)の分身を離れ、一人の登場人物として「作品」の方へ旅立ってしまう。キョンくんが荒唐無稽な世界を「日常」と定義した瞬間に、私たちとは分断されてしまうのだ。
こうした物語的な創造、現実との乖離を脱却し、無味乾燥な日常を受け入れることを大人になる、つまり「成長」と評するのは簡単だが、『消失』はむしろそうしたアニメ的な嘘を受け入れ、自ら同化していくことが衝撃的であった。全てのエヴァンゲリオンにさようならするのではなく、これからも乗ります!と言い切ってしまうのが『涼宮ハルヒの消失』なのだ。


世界の中心同士が惹かれ合い、アニメ的な世界が肯定されてゆく。そんな『消失』において割りを食ったのは、小泉くんと長門有希だ。改変後の世界の小泉くんは涼宮ハルヒと運命的に引き寄せ合うキョンに対して「羨ましいですね」と極めて穏やかな声で本音を語り、長門有希は自分の想いと世界を天秤にかけられ、現実は無情にも後者を選択する。
『消失』を観ながら思うのは、キョンが元の世界を、涼宮ハルヒを強く求めるあまり、視野が狭くなっていることだ。アンドロイドである彼女にも感情が芽生える可能性があることをモノローグではっきりと明言しておきながら、実際に起きたそれを「エラー」「バグ」と解釈するのは、あまりに非情ではないか?自分の求める理想の世界には長門有希の存在が欠かせないはずなのに、一人の個人としての彼女の気持ちを蔑ろにしすぎではないか?
長門有希が世界を改変するほどの「エラー」を蓄積させていった経緯を、私は知らない。ただ、知らないのは彼女にとってもおそらく同じで、理解不能な回路(仮にこれが心を意味する部品ならば)の不具合に文字通り胸を痛めたであろう。そんな彼女が思わず願った世界には、涼宮ハルヒがいなくて、キョンがいる。思い通りにならない場合の暴力装置としての朝倉さんもいる。長門有希は宇宙人にプログラムされたアンドロイドなんかじゃなくて、欲も邪心もある「人間」だ。なのにキョンは、そんな彼女を見て見ぬふりをする。


そう、私が『消失』を観ながら感じたのは、「怒り」だ。長門有希だけが、傷つかなければならない。思い通りの世界を維持するために、存在を否定され、殺されなければならない。まるで、恋をしたことが罪であるかのように。図書館のカードを作ってくれた親切な人に向けた「ありがとう」の気持ちは、永遠に届かない。どうして、どうして長門有希だけの想いが!こんなにも遠いのか!!
あの頃のインターネットには、「長門は俺の嫁」という宣言が叫ばれていた。それはおそらく、私と同じ怒りを抱えた者の叫びだったんじゃないだろうか。作品の外からそこに介入できない悔しさをにじませ、己のために朴念仁を貫いたキョンへの怒り、報われぬ恋心に引き裂かれる長門有希を自分が幸せにしたいというピュアな願いをかきたてる。それらを凝縮した6文字がコメントとしてニコニコ動画の画面を覆い尽くした時、彼らはあの雪景色を思い出していたのだ。
以上が、『涼宮ハルヒの消失』の初見感想でした。学校という学生にとっての日常の象徴を描く美術の細やかさ、季節感を視聴者にも感じさせる冬の記号が織り成す映像の豊かさ、涼宮ハルヒさんの一挙手一投足を表現するアニメーションの可愛らしさに撃ち抜かれましたが、当時のオタク文化の最先端を走る話題作が、わりとオタクたちを切り捨てる話だとは予想外でした。
それはそれとしてこれからの人生、12月18日を迎える度、あるいは雪が降る光景を見るたびに、誰もいない教室で一人本を読む彼女のことを思い出して、切なくなるのだろう。なんとも残酷で美しい「呪い」に抗うように、私もこう叫ぶしかない。
長門は俺の嫁。








