ゼロ年代 実写化邦画・セカイ系からの逆襲!いま観るべき作品『世界の終わりから』

ヒロシニコフ

©2023 KIRIYA PICTURES

紀里谷和明監督最新作にして、最後の監督作『世界の終わりから』(23)が4月7日より劇場公開中だ。本作について紹介するにあたり、まず紀里谷監督の作品を取り巻く環境の変化、そして監督の足跡について総括しておきたい。作品の内容に関する評価と直接的に関わらないかもしれないが、「なぜ、いまこの映画なのか」を考えるにあたっては重要であるからだ。

紀里谷監督の長編デビュー作は『CASSHERN』(04)だ。この作品は良くも悪くも有名だろう。タツノコプロが制作したアニメ『新造人間キャシャーン』(73)を原作としながらも、あまりに大胆すぎる設定の変更とリ・ヴィジョニングに「キャシャーンの実写化」を期待した古参のファンたちは落胆した。また、配偶者だった宇多田ヒカルが高い知名度を誇っていたことも悪い方向に作用し「宇多田ヒカルの壮大なMV」と揶揄された。そして、何よりその低評価に拍車をかけたのが当時の邦画界の流れだ。

『CASSHERN』が公開された2004年、邦画界は空前の「名作実写化ブーム」だった。特にやり玉にあがるのが『デビルマン』(04)だろう。この作品について今回は多くを語らないが、観客からの反応は壮絶なものであり、今日に至るまで「ダメ実写化の金字塔」としての立ち位置を不動のものとしている。さらに庵野秀明が監督した『キューティーハニー』(04)もまた評判が芳しくなかった。セル画的なアニメ表現を止め画の連続で再現する手法(通称「ハニメーション」)は滑り倒していたし、ドラマ演出の希薄さも手伝い「所詮はアニメ監督」と庵野秀明は映画監督失格の烙印を押された。かくして『デビルマン』『キューティーハニー』『CASSHERN』、この3本は「ダメ実写化三羽烏」としてまとめて語られることとなった。

この邦画界の大いなるダウンワード・スパイラルに『CASSHERN』は存在していたわけだが、当時全てを劇場で観た筆者からすれば、『CASSHERN』は「ダメ映画」と一刀両断できない異質な存在であった。ディストピア世界のビジュアルがもたらす視覚的なセンス・オブ・ワンダー(ザック・スナイダーが本作をお気に入りと公言していることも納得だ)、そして映像の奥行きの浅さを逆手に取った舞台劇的な演出。さらに、アニメ表現を実写の枠にスマートに落とし込んだ映像表現の格好良さ。何より全編を横断する「戦争」「差別と支配」「人間の罪」を核としたハードSFに翻案された『地獄の黙示録』(79)と言える語り口に打ちのめされた。もちろん、問いかけとなるセリフを執拗に反復させることでテーマを表現する、稚拙とも映る青臭さが「独りよがり」と批判される点は頷ける。だが、それ以上に様々な要素を過剰搭載しながらも、「紀里谷和明」という映像作家のカラーを全面に打ち出した作品として自立していることに評価の重きを置きたい。

『CASSHERN』から見て取れる紀里谷和明の映像作家としての志向を考えるに、90年代後半~ゼロ年代のアニメーションへの意識は大きいだろう。『カウボーイビバップ』(98)『攻殻機動隊 S.A.C.』(02)を手掛けた脚本家、音楽には『新世紀エヴァンゲリオン』(95)の鷺巣詩郎、絵コンテにガイナックスの樋口真嗣を起用していることからもそれは明白だ。また、「ある若者の視点に世界の命運が左右される」プロットは「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」=「セカイ系」以外の何物でもない。ゆえに『CASSHERN』は『新世紀エヴァンゲリオン』の落とし子的存在と言って良いものなのだ。

「セカイ系」……なんとも香ばしいワードだ。実にオタク的であり、この言葉で括られる作品に鳥肌が立つ方もいらっしゃることだろう。だが、客観的に見るとセカイ系作品ほど、この数年で一般化を果たしたものはないのではなかろうか。『涼宮ハルヒの憂鬱』(09)や『魔法少女まどか☆マギガ』(11)は大きな人気を誇るコンテンツとなったが、あくまでオタクの慰み物の印象は拭えない。やはり転換点は『君の名は。』(16)を始めとする新海誠監督作品だろう。これらはセカイ系を地で行くものでありながら、超巨大ヒットを飛ばした。これはセカイ系がオタクの手を離れ、広く受け入れられた現象と言える。

また、海外に目を向けてもセカイ系の波が見える。孤高の立ち位置を築いた『ドニー・ダーコ』(01)は突然変異の感はあれども、10年代以降にその傾向は著しい。『メランコリア』(11)は、うつ病の女性と世界の終わりを並行して描くトリアー流セカイ系。『インターステラー』(14)はSF設定に対して綿密な考証がなされているが、着地はセカイ系だ。また、ある少女の目を通して内面的な世界の終わりが描かれる『スターフィッシュ』(18)はまさに、な面持ち。さらにはアカデミー作品賞を受賞した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(22)は、ミクロな関係性がマクロな事態に直結する、まさかのそれであった。SNSに代表されるように、個人の関係性が世界へと広く接続されてゆく世相ゆえ、それを反映する形でセカイ系作品が近年増えているのではないかと想像される。

つまるところ、紀里谷監督が描いた作品世界に、ようやっと現実世界が評価軸と共に追いついてきたのだ。さらに、もう一つ追いついたものがある。それは「映画監督」としての庵野秀明の評価だ。『キューティーハニー』で冷笑された庵野秀明の評価が『シン・ゴジラ』(16)にて逆転したのだ。実写化邦画が苦戦していた時代から約20年、再評価と逆襲の時が来たように思えてならない。

では、この20年間の紀里谷監督の足跡を見ておこう。『CASSHERN』の後に、紀里谷監督は石川五右衛門の生きざまを織田信長伝などに絡めて活写した『GOEMON』(09)を発表。『CASSHERN』よりメッセージ性を減退させ、娯楽色を全面に打ち出した作りとなっている。時代劇に捉われない大胆な映像は目に楽しいが、毒っ気の少なさからやや物足りない印象ではあった。そして、ハリウッドに招聘され『ラスト・ナイツ』(15)を監督。ここではVFXを多用したビジュアルを封印し、東欧の重厚感あるロケ地で撮影を敢行した。「独りよがり」と揚げ足をとられるような演出はなく、全てが堅実な作り。だが、持ち味を失った感は否めず「悪くはないが……」以上の感想が浮かばないものに。どれも水準以上の仕上がりではあるのだが、『CASSHERN』の持っていた異端さを超えるものは作ることができなかったように見える。映画監督としてのキャリアを着実に築き続けるも、決して順風満帆とは言えない20年だったのではないだろうか。

そして、2023年4月『世界の終わりから』が公開された。『CASSHERN』の世界観が正当な評価を受けうる時代となり、同時期に実写化で辛酸を舐めた庵野秀明がヒットメイカーと化した今、紀里谷監督が放ったのはいかような作品なのだろうか。

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「こんな世界なくなればいい」。高校生のハナは在宅介護していた祖母を亡くし、独りきりになってしまう。孤独な彼女は夢も希望も失い、生きる意味を見出だせなくなっていた。高校の卒業を控えたある日、彼女のもとに政府機関を名乗る男女が現れる。連れてゆかれた先で待っていた老婆はハナにこう語る。「世界はあと14日で終わる。それを救えるのは、あなたの夢だけ」。ハナは戦乱の世を生きるユキと名乗る少女と出会う夢を見ていた。彼女との行動が世界の行く末を変えてゆくことになる……。

セカイ系である。この上なくセカイ系である。ティーンが抱える「等身大の悩み」が世界の存亡と直結。孤独と絶望に苛まれる、どこにでもいそうな少女が世界の救済なる大いなる課題を与えられる。そんな彼女に対し、縁を持った大人たちや、数少ない同世代の友人が、少しずつ言葉を与えてゆく。「キミを心配している人はいるさ」「理不尽と戦わなきゃダメ」「俺はこの世界、好きかな」。顔を上げて世界と直面した彼女が出す結論とは……などと書くと、実に「よくある感じ」。

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だが、この映画のシェフは紀里谷和明だ。決して「よくある感じ」に終わらない。主人公ハナの見る夢は「戦乱の世」という時代設定だが、どことなく無国籍で浮世離れした印象を与える。夢で出会った少女ユキ、人語を話さない巨漢シロと旅をする絵面は彼らの民族衣装様の服装も相まって『ザ・フォール/落下の王国』(06)に近い趣だ。また、そのファンタジー感覚は現実世界にも浸食する。主人公に世界の命運を託す政府機関の外連味も相当なもの。古びた商店街の地下が洞窟となっているギミックもさることながら、そこの責任者である老婆のジブリ・アニメを彷彿とさせる外見、夢を解析する装置、老婆をサポートする小人など、舞台は「主人公の半径1メートル」であるにも関わらず、現実離れしたビジュアルの連続だ。

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「なあんだ、結局ジブリや新海誠みたいなことがやりたいのか」などと揶揄する観客に対して、この映画は牙を剥く。「世界の残酷さ」を暴力ビジュアルで容赦なく突きつけるのだ。突如として始まる銃撃戦、頭部破壊の連続、流血描写は、それまでのファンタスティックな感覚からギアを切り替えるように展開されるので実にショッキングだ。また、それのみならず「等身大の絶望」も用意されており、「厭な映画」としての性質も兼ね備えている。

©2023 KIRIYA PICTURES

ファンタスティックとショッキングの混在は、そのまま本作の持つジャンル横断性にもつながっている。青春、ドラマ、ファンタジー、ホラー、SF。主人公の顔が大写しになったシンプルなポスター・ビジュアルからは想像できないほどに、あらゆる要素が含まれている。いささか要素過剰にも思えるかもしれないが、高校卒業を控え無理やり「大人になれ」と社会から命じられる主人公の困惑と煩悶はひとつの感情で割り切れるものではない。徹底的に主人公の視点で紡がれる本作については、その内面世界の複雑さを映画ジャンルの横断という形で表現し、 瑞々しいエモーションを喚起することに成功している。

複雑な手法を駆使する一方で、シンプルさを尊重していることも特筆すべきだろう。ハナが手にする重要なアイテムとして、カセットテープがある。これは過去と現在、そして未来を接続する役割を果たす。特異なガジェットではなく、カセットテープを手に世界の終末と対峙する少女。絢爛なビジュアル・フィーストを用意すると共に、シンプルな画で観客の胸を打つアプローチは『ラスト・ナイツ』で「VFX封印」を経たがゆえに監督が得たものだろう。同様に映画のトーンも内省的な方向に傾きすぎず、シンプルな娯楽作としての方向性を見失うことなく推進力を保っている。

©2023 KIRIYA PICTURES

ファンタジーと暴力。複雑とシンプル。ビジュアルを媒介として、紀里谷監督は世界に渦巻く美と醜を同時に観客の眼前へと提示してみせる。主人公への問いかけ「この世界が好き?」は、観客に対しても同時に差し出されているのだ。「世界」に対する問いかけは『CASSHERN』でも何度も行われていた。その点は本作でも変わらない。だが、演出の方法は研ぎ澄まされている。台詞の過剰な反復は避け、演出で問いかけを語る。あれから20年。描くことは一貫しているが、その手法はリファインされている。それゆえ、問いかけもより鮮烈に突き刺さる。

かつて『CASSHERN』がスクリーンに姿を現した際、世の中は今より多少良かったように思える。だが、紀里谷監督は厭世観と共に「この世界が好き?」と我々に問いかけた。その問いに対して、真摯に答えを考えた者はいただろうか。そして今日、政治に対する不安、経済の停滞、迫る軍靴の足音……この国に生きる人間にとって、他人事ではいられない脅威が足元に絡みついてきている。我々は今こそ、『世界の終わりから』より再び投げかけられたこの問いに対して向き合わなければならない。

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『世界の終わりから』は紀里谷和明が映画監督として歩んだ20年の集大成だ。その価値は監督の個人史的なものにとどまらず、先に述べた評価軸の変遷に代表されるように、この20年間の洋・邦を問わない映画界の潮流とダイレクトにつながり、輝きを放つ。また、内容に関してもこれまで紀里谷監督が手掛けた作品と異なり、原作や既存のモチーフに依らない完全オリジナルの作品ゆえ、その作家性が剝き出しとなり横たわっている。そのうえで、本来持っていた世界水準のビジュアリストとしての手腕を損なわず、決して「独りよがり」ではないストーリーテリングと、研ぎ澄まされた演出手法を兼ね備えた純なるエンターテインメントとして形作られたものだ。紀里谷監督は本作を「監督として最終作」と明言しているが、ここから真の評価が始まる気がしてならない。

20年間変わらぬ「問いかけ」の普遍性を有しながら、世界の「今」を切り取った、ミニマルでありながら壮大な人間叙事詩『世界の終わりから』、まさしくいまこそ劇場で観るべき作品である。

公式HP:https://sekainoowarikara-movie.jp/#modal

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