「ザ・ワールド・イズ・マイン」と人間は暴力を手放せるか?関連

ピエール手塚

 1990年代の終わりから2000年代初頭にかけて週刊ヤングサンデーで連載された「ザ・ワールド・イズ・マイン」は、「暴力」の漫画だと思います。本作では、最初から最後まで、目を覆いたくなるような暴力が描かれ続けます。
 そして、この漫画は「反暴力」を描いた漫画だと思います。「痛快な暴力を描くための言い訳として、反暴力のお題目を付け加える漫画」ではなく、「反暴力を描くために、嫌な暴力を徹底的に描いている漫画」であるように思います。
 この漫画の根底にあるのは、「人間が暴力を手放せないのではないか?」という絶望で、その絶望の中で、人間は反暴力の未来を想像できるか?ということを問うているのだと思いました。

 本作は、トシとモンの2人が、殺人や強姦などの犯罪を繰り返す漫画です。彼らに目指す先はありません。彼らの行動は、トシが作り上げた爆弾という力を、使うことそのものを目的として始まります。2人は街に爆弾を仕掛け、それを爆破させながら旅をします。モンは目障りなものを暴力で黙らせ、性欲を強姦で満たします。そしてトシに、力を使うことをよしとして教えます。最悪です。彼ら2人は疑いようのない悪であり、しかしながら同時に等身大の人間でもあるということも分かっていきます。

 この物語は、人間が持ってしまった「力」のお話だと思います。読者である自分たちと変わりのない、平凡で未熟な人間が「力を手に入れてしまったとき」、「それを使うことを促されたとき」、「使ってしまった力によってもはや後戻りができなくなったとき」、「そんな状況を肯定していくしかなくなったとき」、どのようにその力が暴力として加速していくかが全力で描かれていきます。

 本作にはもう一つの暴力があります。それはヒグマドンと呼ばれる怪物です。宇宙より飛来した何かがきっかけとして生まれたらしきその怪物は、熊のような姿をして、そして、急速に大きくなり、怪獣と言っていい大きさにまで成長します。そして、人を殺し、街を破壊します。
 ヒグマドンは自然災害です。トシとモンが人間が生み出す暴力であれば、ヒグマドンは人間の存在を嘲笑うような制御不能の大きな暴力です。
 ヒグマドンに、人間でいうところの悪意はないでしょう。彼は超常的ながらも生物として存在しており、ただ、彼の前では人間があまりにも脆弱であるだけです。

 本作では2つの暴力が対比的に描かれているように思います。それはヒグマドンの自然の暴力と、トシとモンの人間の暴力です。人間は社会を構築する上で、自然の暴力を捨て去ることで発展してきた生き物です。トシとモンのように暴力を行使することは、人間が人間でないものになるような行為です。
 つまり、もともと人間でないものの暴力と、人間であったのに人間を捨ててしまうものの暴力です。

 警察署を占拠した際のトシは、警官に向けて、仲間の警官を殺した自分のことを、お前たちは殺したいと思っているだろう?ということを指摘します。そして、警官たちの抱えるその殺意と、自分たちの殺意、殺したいという気持ちは同じであるにも関わらず、お前らのは合法で善玉、自分たちのは違法で悪玉か?と問いかけます。
 本作では、おそらくそこに本質的には違いはないものとして扱われていると思います。トシの殺意も、警官の殺意も、ラベルが違うだけで同じ殺意です。そう思う理由は、そこに差し込まれる「善悪に……非ず。体制と反体制だ」という言葉があるからです。
 人間はその暴力を内面に抱えます。しかしながら、それを使っていいかどうかの許しを、何によって得るかの違いはあるでしょう。

 例えば、自分たちを被害者として定義したときに、加害者と見なされた人々に向けての暴力が解放されることがあります。それが世間的に受容される場合も、されない場合もあると思いますが、「同じ暴力である」ということを忘れてはいけないのではないかと思います。
 ここにおいて「仕方がないこともある」と思うかもしれません。僕もそう思うことがあると思います。しかしながら、自分が何をもってしてそれを仕方がないと捉えるかどうかを認識しておくことが重要だと思います。
 例えば、国家の法律に基づいた刑罰も暴力の一種です。しかしながら、その犯罪者を罰するという暴力は、行き過ぎないために、暴力を個人の手から離し、法律による限界を予め定めた上で行使される仕組みになっています。法律による刑罰は、人間の行き過ぎた暴力への反省と、その制御の歴史の積み重ねです。

 さて、僕が本作を、なぜ暴力を嫌なものとして描いている漫画と受け取っているかというと、そこに「子供を殺す場面」が出てくるからです。ヒグマドンの犠牲になるのも子供ですし、トシやモンが子供を殺す場面も出てきます。
 それは不愉快な場面ですし、助かって欲しいと思ってしまう場面でもあります。しかし、そこに峻別はなく、ひとつの命として消えていきます。

 ホラー映画を見ていると、「子供は殺されない」ということを感じることがあります。それは、エンターテイメントとして見るには不快になり過ぎないようにするためでもありますし、希望を残すためでもあると思います。
 例えば、大人たちはみんな殺されたとしても、唯一子供だけが生き残った物語があった場合、人はそこに希望を見出してしまうかもしれません。死んだ彼らは犠牲になったが、子供に希望を残すことができたと、いい話として回収されてしまうかもしれません。
 それは、ある種の暴力への赦しと捉えられるのではないでしょうか?視聴者の苦しさは軽減されるかもしれませんが、それは果たして全面的に良いことと言っていいのでしょうか?

 僕が本作を子供の頃に読んで本当に嫌だったのは、トシがある母子を殺す場面です。彼女たちには殺されるにたる理由がありません。彼女たちが困難な人生の中で、どうにか前向きに生きるようになってきたことが描かれます。彼女が死んだ理由は、トシとモンと行動をともにするマリアと友達であったからというだけです。そこに殺されるに足る、何の因果も責任も見出せません。
 マリアは友達の母子が殺されないように、必死でモンを説得しますが、それが成功したかと思われた矢先に、部屋に戻るとトシは既に殺しています。赤ちゃんも殺されていることが分かります。
 そこに希望はありません。殺したことを肯定できる道筋は見つかりません。ただ、起こるべきではなかったことがあります。それはとても不快で、なんでこんなことになるんだという怒りで、そして、諦めです。

 トシやモンは読者と一番長く時間を過ごす存在です。ストックホルム症候群のように、彼らのことを見ている時間の中で、気を許してしまう、どうにかして彼らのことを肯定してやれないかと思ってしまうかもしれません。しかし、それが不可能であることを突き付けられます。

 本作が残酷なまでに徹底しているのは、トシやモンを読者から切り離せる「規格外の異常者」として描かなかったことです。トシはなぜ異常な殺人鬼となったのかは、社会における機能不全と掛け違い、そしてタイミングです。爆弾を作ってしまったこと、モンにたまたま出会いそれを使う赦しを得てしまったこと。出会ったことは必然と思われるかもしれません。その必然と思ってしまうことが人間の弱さです。それによって自分を赦してしまうからです。
 罪を重ねたトシは後戻りができなくなります。後戻りができなくなった自分の赦すために、言い訳を重ね、それはかさぶたのように傷口を覆い隠していきます。
 トシは普通の人間でした。上手くいかない毎日の中で、少し自分を大きく見せたい。誰にでもあることだと思います。それが運悪く、きっかけを得てしまい、正当化を重ねることで暴走に至りました。

 モンは一見特別な存在に見えるかもしれません。作中でも特別な存在として最後まで扱われはします。モンは人間が長い歴史の中で獲得したはずの「人間的な良心」を持っていないように見えました。思うがままに振る舞うことは生物的な欲かもしれませんが、人間はそれを制御して社会を回します。しかし、モンはそれに縛られない。意味ありげな言葉を発し、普通の人が縛られるものに縛られず、自由に振る舞います。作中にもそんなモンに心酔する人たちも出てきます。
 それはきっと、自分たちがいかに縛られてこの社会を生きているかに気付いてしまうからでしょう。
 しかし、モンの生い立ちが描かれる中で、それらはすべて幻だと描かれます。モンは人間性を超越していたのではなく、人間社会から排斥されて生まれ育ったために、人間性を学ぶ以前であったということが分かります。モンは大人になった後で、このお話の中で、人間というものをようやく学んでいくのです。先を行くものではなく、スタートラインから動いていなかっただけだと分かります。
 意味ありげなセリフは、幼いモンと一時を過ごした、犯罪者による自己肯定の言葉を繰り返していただけだと分かります。他の人がその奥に深淵を見つめた言葉は、実は空虚なものであったという話になります。
 人は暴力を抱え、赦しを求めています。人は自分の抱えた暴力を、モンを利用することで赦していただけではないかと思います。

 警察署を占拠した際、警官に囲まれ日本中に報道される中で、トシは人質を片腕に、世界に向かって要求をつきつけました。
 「世に棲む生きとし生けるものすべてが、自由に、平和に平等に、美しく明るく楽しく暮らせる、幸福と善意と優しさと愛に満ちた……世界を……要求する!!」
 これは最悪の殺人鬼が、世界に向かって要求する言葉として痛快であり、作中でも世間は沸き立ちますが、しかしながら、トシは「そんなものはない」と思っているからこそ、それを要求したのだと思います。

 自分たち最悪の殺人鬼と比べて、お前たちは善人か?善人であればこんな世界を実現できるだろう?実現できないのであれば、お前らだって自分たちと同類だ、というような皮肉です。
 本作ではその後、総理大臣のユリカンがこの言葉に、人間は不完全であるが、それでもどのように生きるべきかの大人の回答を行います。

 これは本作を象徴する場面だと思っていて、人間は不完全で、誰しも内在的な暴力があり、それをしばしば制御できずに悲劇を巻き起こします。完全な人間が世界を動かすことはあり得ず、不完全な人間が、それでもいかに世界を動かしていくか?ということです。
 だからこそ、人間は平等であるということ、暴力は放棄するべきであること等のお題目を掲げながらも、今なお人は不平等に扱われ、暴力を放棄できていない現実から目を逸らさないことが描かれているのだと思います。平和を追求するために暴力を必要としてしまうのが人間です。暴力の行使がなければ平和から遠ざかるという現実もあります。
 例えば、「犯罪者を止めるための行動は暴力ではない」という捉え方もあると思います。しかしながら、本作が問うているのは、それらを一回すべて暴力だと思ってみましょうということではないかと思いました。犯罪者を制圧するのも暴力です。必要な暴力です。人はそれが必要であるために暴力ではないというような赦しを与えます。しかし、否定すべき暴力の側にだって、その背後に何らかの赦しが存在していると思います。それが世界の他の誰にも認められないものだったとしても。

 人間は暴力を捨てられず、それを、理由を見つけては赦してしまいます。「ザ・ワールド・イズ・マイン」は、人間がそうであるという前提で、世界を眺めるような漫画だと思っています。

 本作は最後、人間が生み出した暴力の象徴である核兵器による人類の滅亡を描きます。それは、核兵器を使うという赦しを得てしまったから起こったことです。そして、最後に人間への問いかけがあります。この物語の中の人類は滅亡しました。その次があったとき、あなたはその先に何が見えるか?という問いです。
 読んでいて、なんでそんなことをするんだと思ってしまう、目を覆いたくなるような暴力を徹底的に描いたのが「ザ・ワールド・イズ・マイン」だと思います。「人は死んだが、希望が残って良かった」というような暴力への赦しを封じるために、徹底的に殺すことを選んだような物語だと思います。
 自分の抱える暴力を、自分が如何に赦しているかを見つめるためにも、読んでみるのはいかがでしょうか?

 2026/9/19(土)~2026/10/25(日)までの間、大阪の画廊モモモグラで、「ザ・ワールド・イズ・マイン」原画展が開催中です。90年代のアナログ作画であり得ないような密度で現実とその破壊を描写した、週刊誌での連載ではありえないような原稿が見られるので、めちゃくちゃオススメです。

著:新井 英樹
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