モテたい女がバカをやる! ボトムスで愛の必然性をぶっ潰せ!

人間無骨

たりないふたり

楽してモテたい!!!!
あの子に振り向いてもらいたい!!!!

これは人間の根源的欲求です。
モテたいなら自分を磨け? 磨くような美点があるわけないだろ……!

モテのために七転八倒するアホを面白おかしく眺める作品は古来からの定番ですが、これが同性愛になると途端に数が減ってきます。

別メディアとはなりますが、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』は各話のタイトルが全て『モテないし~』で統一されており、同性愛要素も感じられるものの、長期連載によってモテを求めるという要素は薄れ、同性愛の部分もメインではありません。

連載初期と現在で大きくカラーが変わった作品。初期しか読んでいないと驚くだろう。

多くの観客は『あの子』のために奔走する同性愛者に共感できなかったのか、つい最近、あるいは未だに明るく相手探しなんてできなかったのか。

このジャンルには見えない壁があったわけです。

そこに華々しく大穴をぶち空けるのが今回のエマ・セリグマンの『ボトムㇲ』です!

邦訳版はフォントがダサすぎる……!

あらすじ――個性にあふれ、思春期の欲望むき出しのコメディである本作では、イケてない女子高校生2人が、高校最後の一年でチアリーダーたちとヤるためにファイト・クラブを始める。そしてそんな彼女たちの奇想天外な計画は成功する!しかし2人は状況をコントロールできるのか?

マッチョなアメフト部員役のニコラス・ガリツィンは『赤と白とロイヤルブルー』にてヘンリー王子を演じており、馴染みのある方も多いのではないでしょうか。

あらすじの通り、ボトムㇲではモテないしイケてないクィアのコンビ、PJとジェシーが『あの子』の気を引き、そしてヤるために学校でファイト・クラブを始めるという頭のユルい映画です。

ダサくてツッコミ役なジェシー(左)と自分勝手でいい加減なPJ(右)
明らかな問題発言だが、実際ジェシーもPJもしょうもない学生である。

ユルいの主人公コンビだけではなく、学校はまともに授業をやってないし、アメフトはアホみたいにカーストが上だし、過剰なくらいコメディのノリが打ち出されています。

授業シーンは90秒で終わる。
この学校でアメフト部は頂点の存在。全編で無駄にもてはやされている。

ストーリーライン自体はコメディらしいコメディで、ユルいノリの中でちょっとシリアスな展開が挟まるものの、最後には意中のあの子と結ばれてハッピーエンド……という、期待も予想も大きく裏切らない内容となっています。

車を爆弾で吹っ飛ばしたり、

ひょっとして『ファイト・クラブ(1999)』リスペクトなのか?

乱闘で人が死んだりしてますが細かいことはいいでしょう。

アメフトで死者が出るのはごく普通のこと

なんてったってハッピーエンドだからね!

もちろんラブシーンも下品にならない程度に艶っぽくて甘酸っぱいので、青春が遠くに消え去ったパサパサな社会人の皆さんも潤いを取り戻せます。

ちゃんと見てほしいのでキャプションは載せません。

愛の必然性

間違いない内容をノリのいい音楽と演出で楽しめるのは映画という娯楽の基本ですが、それを満たした上でこの映画を名作にしているのは何でしょう?

それはクィアのコンビを主人公に据えた上でセックスコメディをやり切った点にあります。

冒頭でも書きましたがクィアが登場するのはもう当たり前の時代とされながらも、学園コメディでレズビアンが主役となっている作品は、ブックスマート(2020)などもありましたが、まだまだ数は多くありません。

こちらも高評価の映画。ボトムスよりは真面目

モテない女が可愛い女とお近づきになるためにバカをやるという筋書きを高いクオリティで実行したことに、まず意味があるわけです。

作品を評価する上で長らく使われてきたフレーズに、女同士の話でやる意味がないというものがあります。ナンセンス極まる意見ですが、言いたいことは『普通に』男女の恋愛として、男の主人公でやればいいじゃないかってワケですね。

また他方で、とりわけ女性の同性愛の話をやるならそれは現実の問題にアプローチするものであるべきという考え方があります。とにかくハッピーで明るく女と女の話をやるのは未だ続く差別に対してお気楽すぎる……その批判には確かにうなづけるところでしょう。

こうした考えが融合した結果として、女同士の話をやる必然性として社会問題や男らしさへの批判が用意されることもあります。
ボトムスは意図的にこのような必然性を重視していないように感じます。先述の通り、映画の舞台はマッチョな男達が至上とされていて、クライマックスもアメフトの試合となっています。

アメフト部員を救った一行は喝采されるわけですが……

果たしてこの学校の体質は変わるでしょうか?

徹底的に軽薄な空気が改まり、アメフト部員の面々が自らの男らしさを見直すでしょうか?

そうした問いに作中で答えが出ることはありませんが、最後の対決相手が『凶暴なライバル校の選手』という学校外の存在であるところに含意を感じます。

PJとジェシーが何も変えないことに制作陣が無自覚かというと、決してそんなことはありません。

なぜならPJとジェシーはそもそも学校を変えることになんの興味もない人物として描写されているからです。

意中の子とヤれたらそれでOK!
ファイト・クラブもフェミニズムも彼女達にとってはセックスの方便です。
(あるいは、かの映画で『男らしさ』のために存在したファイト・クラブをモテたいだけのレズビアンが使い捨てるところに意味を読み取れるかもしれません)

『クソしょうもないクィアのキャラクターを作ることで、こいつらは(社会的な)フィルターを通さない性欲を持つことができる』(*)という見解を監督のエマ・セリグマンは述べています。

さっきの問いに戻りましょう。

女同士の物語に必然性は必要か?

そんなもの必要ねえ! モテたいからってバカをやる女でゲラゲラ笑え!

(*)
https://www.abc.net.au/news/2023-11-30/bottoms-movie-review-interview-with-director-emma-seligman/103159990

本文英語

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