

今更見ました(いっつもこれだな)
腹が、減った。こんにちは、マシーナリーとも子です。今月は今更ながら『劇映画 孤独のグルメ』をAmazonPrimeVideoで見たよ~! そういえば先々月に見ようと思って別の映画に流れてしまったんでした。
https://m-nerds.com/kodokunosusume
この映画、公開当時周囲でも評判良かったんだけどなんか自分の生活のバイオリズムと縁がなくて見られなかったんだよね~。公開から1年弱経ってようやく見られましたな。


まあ、『孤独のグルメ』のドラマおもしろいし、主演も脚本も監督も松重豊ってのはちょっとビビるけど、ハズしはしないだろ…。と軽い気持ちで見てみました。が、思ってたよりも複雑な視聴感に包まれてしまった。な、なんだこの映画は……。


結論から言うとこの映画、ちゃんとおもしろかったんですよ。おもしろさだけなら大満足です。そしてこのあとグダグダ述べるんですけど、そういう複雑な感情があったうえでの結論としては「好きだなあ~…」に落ち着きはしました。好きです。この映画。
しかしただ、ただどうしても気になってしまい、言いたい、考えたいことがある。好きだけど、ほっておけないことがある。
これは『孤独のグルメ』なのか……?
『孤独のグルメ』から逸脱しているッッッッッ
かつての恋人・小雪の祖父から「幼少のころに食べた”いっちゃん汁”をもう一度飲んでみたい」という願いを聞き入れ五郎が奔走する、というのが本作のざっくりとした筋だ。
その課程で色々とトラブルがあったり出会いがあったりして……という、実に映画らしい? 本編よりリッチな展開が描かれる。


「スープに使う出汁の具材を集める」というのもロードムービーとしては鉄板だ。ブレイク・スナイダーが言うところの「金の羊毛」タイプのお話だ。松重豊さんがかなり真面目に、映画にするならどんな話を作れば「成り立つ」のか? ということに対して取り組んだんやろな、というのが伺える。
各要素がキレイに結びついて極上のスープが完成し、五郎の目的が遂げられるとともに、それまで出会ってきた仲間たちの願いも成就し、みんなが少しずつ幸せになるという物語は大変心温まるもので美しい。


ああそうか、これって「スープ」なんだな。いろんな出汁を煮てスープを作るのと同じように、仲間たちが手を取り合って心を通わせひとつの目的に向かって協力するのもまた「スープ」なんだ……。なんて収まりのいいお話なんだ!
そう思える。間違いなく。
だが…… やはり……?
これって『孤独のグルメ』かなぁ~!?


『孤独のグルメ』がすごかったところはなんだろう? それはおそらく食事が、物語のための小道具や機能、ギミックとして使われていないところだ。
多くの映画……あるいは連続ドラマやマンガ……では大抵の物語において「食事シーン」は目的というより手段だ。それとは別に重視すべきお話とか人間ドラマがあり、それを円滑に進めるために用いられるものだ。
それは温かい家族の団らんを描写するためであったり、限りなく死に近づいた戦いのあとの生を描くための手段であったり……「フード理論」なんて言葉もある。「善人は美味しそうに食べ、悪人は粗末に扱い、謎の人物は食べない」……という理論(というほどのものでもないのだが、まあ「音楽理論」みたいなもんですね)だ。


でも『孤独のグルメ』はそうじゃない。井之頭五郎はそれまで進めていた商談だとかそういったものをぶった切り、腹が減る。そしてただ飯を食う。そして頬張るたびに頭のなかでいろいろなことを考え……考えることもあくまで食事そのものについての感想でしかなく、前フリである仕事と繋がるとしても大抵はダジャレのネタとして消費される程度だ。
そして、飯を食ったらなんとなく仕事のことを思い出してそのことについてボソッとこぼしながら帰路につく。
食事と、食事以外のシーンが大して結びついていないんですよね。
食事をしたことで、仕事についてヒントを得て「そうか!」と解決したりしていない!
そしてじゃあこのお話にドラマは、起伏はあるのかというと単に食事にそのものの美味しさの盛り上がりでやっている。メシをドラマティックに食っているだけッッ!
でもそれが『孤独のグルメ』のすごさであっておもしろさだと思うんですよ。数多のメシマンガだって大抵は食事を、物語と結びつけることから逃れられていない。『ドカ食いダイスキ! もちづきさん』ですら、前フリとオチ、それをつなげる食事シーンがちゃんと物語として繋がっている。
じゃあなんで『孤独のグルメ』はそんなことをしているのか。それは連続ドラマ版で毎回表明しています。
──時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たす時、つかの間、彼は自分勝手になり自由になる。誰にも邪魔されず、気を使わずものを食べるという孤高の行為。この行為こそが現代人に平等に与えられた、最高の癒しと言えるのである。──


これが『孤独のグルメ』の肝です。そしてこれは我々の姿でもあるんです。
めちゃくちゃ悩んでたり落ち込んでるときでも腹は減る。そしてそんなときでも大抵の人はできるだけ可能な範囲でおいしいものを食べたがる。そして食べ……それまでどんなにネガティブでも「うまいな」と思う。うまいというのは間違いなく幸せな感情だ。でも、その食事そのものが、いま人生で立ちふさがっている悩みに対して解決策を与えてくれることなんて滅多にない。そんな料理漫画みたいなことなんて起きるわけねーだろ!
でも、食事ってのはそれでいいんだ。ただ美味しくて幸せなだけでいい。それがふつうで、でも必要なんじゃないですか。「ケ」の幸せというか……。人生の一大イベントではないけど、毎日を生きるために必要な幸せ。それを……「解決なんかしねーって!」というところも含めて真摯に描いているから、『孤独のグルメ』は多くの人々にとって共感を呼び、人気を呼んだわけです。多分。
このスープは美味すぎる


でも映画だとめちゃくちゃ「ドラマのために食事シーンがある」じゃねえかよぉーっ!
映画のゴロちゃん、独りじゃないし静かじゃないし周囲に気を遣って食べてるシーンばっかりだよッ!?


いや、そうしたシーンがネガティブに描かれてるわけではないんですよ。全部いいシーンで、心温まる。間違ってもアームロックをかけにいったりしない。だから、映画としてはいいんですよ。
でもさ~
でもさ~
それって『孤独のグルメ』かなあ!?
核心がズレてるじゃん。
『神々の山嶺』で、羽生丈二が「仲間と一緒に登るし酸素使ってノーマルルートで登るぜ」って言ってるようなものじゃないですか!?


ハアハア すまない また『神々の山嶺』の話をしてしまった。あの兄ちゃん毎月『神々の山嶺』の話してる……。でも作画:谷口ジローつながりで許してよッッ


そのことになんか見ていて納得がいかないッ。でもボンヤリと見ている純粋視聴者の私も確かにいて、あぁ~いい話だァ……と確かに思ってしまっているッ。二律背反だッ。どうすれば、どうすればいいんだこの相反する感情は!?
悩みながら見続けていると……ついに終盤。五郎が作ったスープを、くだんの依頼主・一郎が啜る。そしてこう呟くのだ。
「違うなア…」
「美味すぎるんだァ…」


あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッッ!!!!
ですよね~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!
そうなんですよ! この映画、「おもしろすぎる」んですよ!
いや、こういう言い方は良くないな……。なにも原作や、ドラマ版の『孤独のグルメ』がおもしろくないわけではないのだから。なんというか……つまり「おもしろくしようと工夫を凝らしすぎている」!
本当のいっちゃん汁が、元フレンチシェフのラーメン屋のオダギリジョーが腕によりをかけて超こだわったものではなかったように、『孤独のグルメ』もそうした「物語をよりおもしろく見せるための工夫」を凝らすものではなかった(悪口みたいになっちゃったのでフォローを入れると、むしろ既存の構造をパワフルに破壊していると言うべきか)。
だから「すごく美味しいけど、違う」「すごくおもしろいけど、違う」になってしまうわけだ。
でも、それは決してネガティブなことではない。
一郎はそのスープを飲んだことでまだまだ長生きしなければならないと希望を見出した。
そして我々も『孤独のグルメ』でもやり方次第ではこんな人情ドラマを描くことができるんだなという気づきを得られた。これも一種の希望でしょう。
この、最後のシーンになんというか……謝罪ではないんだけど一種のバツの悪さというかエクスキューズのようなものを感じてほわっとしました。そんならもう……なにも文句は言わねえよ! おもしろかったよ! 松重さん! ありがとうな!
夢だけど夢じゃなかった


この映画の序盤、井之頭五郎が無謀な渡海に挑戦して遭難。流れ着いた浜辺でキノコを食べて泡を吹いて倒れる……というものすごい荒唐無稽なシーンがあるんです。
まだまだ序盤ということもあり、正直ものすごく不安にさせられた。オイオイとなった。『孤独のグルメ』でやることじゃないだろ!!!!!


これまでの作品でやってきたリアリティラインというか、ユーモアの線引きがぜんぜん違うし、五郎のキャラクターもブレすぎている。こんなことやるキャラじゃないだろ!
あまりにも信じられなくて浜辺に漂着したシーンでは、「もしかしてこれあれか? もうさっきの海のシーンでゴロちゃんは死んでて、ここから先は死後の世界とか今際の際に見ている夢なのかな?」なんて『となりのトトロ』の都市伝説みたいなことを考えていてしまったんですが……あとから考えてみれば、ここのシークエンスも「ここからは従来の『孤独のグルメ』とは全然違ったことをやりますよ」という宣言なのかもな~と思えてきました。
ここから出てくる店って、韓国の港の定食屋を除けば架空の施設と店ばかりで、お話もそれらの場所を軸にしはじめて『孤独のグルメ』じゃなさすぎるもんな。
そうした物語をひと通り終えて、スタッフロールが流れ、五郎がふと見かけた……それまで展開されていたドラマとはまったく関係のない、佇まいのない店に入っていって『劇映画 孤独のグルメ』は幕を閉じる。


そう、ここからまたいつもの『孤独のグルメ』が始まるのだと言わんばかりに。
いやいい話でした。








