祓除に続く自己批判性『飯沼一家に謝罪します』

えのき

いまさらですがあけましておめでとうございます。
年末年始の九連休は風邪をひいて何もかもおしまいになったえのきです。

そんな自分ですが熱が出る直前の「あとちょっとで風邪引くかも」タイミングでベッドで横になりながら見ていた作品があります。
『飯沼一家に謝罪します』
これが楽しみにしていたフェイクドキュメンタリーシリーズ『TXQ FICTION』の第二弾ということで本当に楽しみだったんですよね。

Ⓒテレビ東京

特に今回はこれまた近年のフェイクドキュメンタリージャンルでクオリティの高い映像を生み出している『フェイクドキュメンタリーQ』の皆口大地さんが参加という毎回のことながら熱い布陣。
前作の『イシナガキクエを探しています』は『テレビのチカラ』のような公開捜査番組の形式で視聴者から実際に電話を受け付けるという、虚構と現実をあの手この手で越境させる手つきが凄かったですが、今回の『飯沼一家』もまた一癖どころでない面白みがありました。
視聴を進めていくにつれてゆっくりと見えてくる事件の本質部、そこに渦巻く関係者の感情、前作の『イシナガキクエ』は視聴者参加型とすることで『フェイクドキュメンタリー』というジャンルのフォーマットそのものを拡張させる試みだったように思えますが、今作はまた違ったアプローチだったな、と。

そこに込められた意図のようなものを自分なりに深読みするほどに、何とも言えない居心地の悪さが加速して体調は悪化して新年早々病院へいく羽目になりました……。三が日から働いてくださっていた医療関係者の皆さんありがとうございました……。

それでは今作について、考えていきたいと思います。

ある日、深夜に放送された謎の番組『飯沼一家に謝罪します』
それは矢代誠太郎という民俗学者が自らが行った儀式によってある家族に災いを呼んでしまったという不可解な内容だった。
クイズ番組で賞金と旅行を手にした飯沼一家はなぜ災いにさらされたのか、そしてなぜ『飯沼一家に謝罪します』は深夜に放送されたのか?
番組スタッフはその真相に迫っていく……

当事者性不在の、居心地の悪さ

第一話を見ている時に思ったことは二つありました。

・この儀式、そして突然放送された『飯沼一家に謝罪します』という番組はなんだったのだろう?

というこの作品自体が興味を引こうと意識している筋道への思考。

そしてもう一つ

・なぜ過去の番組制作者達はここまで他人事なのだろう?

という思考です。
第一話で深夜に放送された『飯沼一家に謝罪します、という番組』についてそもそも何だったのか、どういった経緯で放送されることになったのかというのを番組スタッフが追っていくわけですが、そこで繰り返される会話は背景にあるオカルト的な文脈以外にも「なんかやだなこれ……」という印象が拭えませんでした。

当時の編成局員、営業局員、プロデューサーに話を聞いていきますが

「詳細なことは覚えてないんですけど」「営業から話がきた」「我々もびっくり」
「当時売り上げがほしくて」「最初に聞いた話と変わってて」「スポンサーの意向ということで」
「覚えてないですね」「携わってたとは思うんですけど」

そんな言葉が繰り返されます。
作中で説明される下請け構造でその歪さはより強調されているように感じました。

Ⓒテレビ東京

確かにその番組はある種の衝撃を持って世の中に受け止められ、そしてその関係者達が明らかに異常な目に遭っている、そんな強烈な出来事であるというのにそれを生み出した側である人々はその番組を目撃した人々よりもなぜか遠い。
自分たちには関係のないような、遠い世界の話であるような扱い。
間違いなく自分たちが生み出したものであるというのに。

一体『謝罪』とは何なのだろう?

Ⓒテレビ東京

本作では夜間に放送された『謝罪します』とは何だったのか、というのを追っていき、表面的に語られていた出来事とそこで実際に起きていた乖離が徐々に明らかになっていきます。
番組内では「儀式の失敗により一家が災いに晒されて全員死んでしまった」とされていた知られていたことも、一部正しく、一部異なる事実があることが明らかになっていきます。
作中で最初に行われた謝罪は矢代教授による、教授の視点では確かにそうであった謝罪なのでしょう。

それは全てが間違いではありません。本来であれば人智の及ばない何か、取り扱いについて適切な方法が確立されていない、自分達の都合でこねくり回すにはまだはやすぎ、未熟すぎたものに触れたということ、そしてその結果に対しての謝罪です。

それでもまだ語られていないことがありました。
長男、明正の生存、そしてその長男は実は替え玉であったということ。

仲良し家族、という風に見えていた飯沼一家にも表には見えない一面が確かにあったということが見えてきます。
作中の居酒屋で店主と常連が当時について父である飯沼さんについて語るところは顕著でしょう。

常連「面白い社長だったよね」
店主「……(何か言いよどむ風)」
常連「……まぁ、気難しいとこもあったよね」

何か歯に衣着せぬ物を着せたような言葉、やり取り。
工場の経営に問題があったなど、何か本来であれば間違った『儀式』による祟りのような何か以外にも本質的に問題があったのではないか? そんな疑念が視聴を続けるほどに浮き彫りになっていきます。

そんな中盤、話は意外な展開を見せます。
一家全焼で亡くなったはずの飯沼一家ですが、生存者がいたということがわかります。
実は飯沼一家の息子は替え玉であったこと、そして、仲良し一家に見えた飯沼一家にも歪みがあったこと、
そして、『飯沼一家に謝罪します』という謎の番組はその替え玉の息子の代役であった子供の母親によって要求された謝罪のための番組であったこと。

本当に、この謝罪は『飯沼一家』のためのものだったのでしょうか?
幾重にも歪みがあり、既に誰が、何のために、かがおかしくなっている。そんな奇妙なねじれこそがこの作品の根幹であるように思えます。

そしてこの物語のラスト、ある人物によって最後に絞り出されるような『すみません』

本当のところ、この作品で『謝罪』の念のようなものが確かであったのはこの一言だったのかもしれません。その言葉の真意すら、視聴者にはつかみきれません。誰に向けたことなのか、何に向けたことなのか。その真意は発した当人だけに秘められたままこの作品は終わります。

思い起こされる昨年の事件、そして祓除に続く自己批判性

第一夜の番組関係者の無関心さや下請け構造。
どうにも『セクシー田中さん』騒動を見ていた時の嫌な気分を連想しました。

確かにそこで人の命が失われたことは確かなのに、関わる人々が誰も彼もどこかピンとが合っていない。
また批判にしても真実を追求したいのか、謝罪を求めているのか、改善を求めているのか、それぞれの事例、ニュースによってあらゆる要素が入れ替わっていて混迷を極めているように感じていました。
そして自分自身そのような流れに何を感じて、何を求めるのが良いのか、正直なところ今でも定まっていません。全てを求めている気もするし、自分自身でも自覚しきれてない部分に実は自分が重要だと思うポイントがあるかもしれないというか。

ここでその事件について何かのスタンスを表明するのはここで語りたいこととは異なるため、書かないのですが、どうにもその事件の時も『誰が』『何のために』といった目的地の不明な謝罪が繰り返されていたような印象があります。
それはこの『飯沼一家に謝罪します』というフェイクドキュメンタリー作品と構造として同じものが見出せます。

SNSでの情報のシェアやこれまで以上に従来のマスメディアや芸能人、もしくはクリエイターとの距離が縮まった結果、良くも悪くも『謝罪』という光景は増えたように思えます。
上であげたのは特に代表的な一例であり、ちょっと意識してみるとインターネットでは毎日のように『謝罪』が氾濫しています。

そこの是非は問いません。私自身、それによって物事が『よくなっている』と感じる時もあれば「何なんだろこれは」と感じる時もあり、時には矛盾も孕んでいるからです。

しかし、時折感じるのは「この謝罪は何のための謝罪なんだろう?」という疑問です。謝罪を行う主体も『何のために』といったことを理解しきらないまま行われる。まるで、作中で細かな原理を知らぬまま実行されて問題を重ねた『儀式』のように。
現代社会は技術が発展して、儀式のようなオカルト的なものが消えたように一見すると思えますが、その実、巧妙に人々の営みの中に入り込んでいるように思えてきます。

以前、ムービーナーズさんの記事で同じく大森Pの作品である『祓除』についてもこのように書かせていただきました。

『祓除』テレ東60周年記念番組としての意味 | ムービーナーズ

この『飯沼一家に謝罪します』もまた同じようにマスメディアとしての自己批判性を伴ったものなのではないでしょうか。

すこし脇道にそれると純粋な意味での『ドキュメンタリー』にも本質を見えなくさせる側面があります。『大家族もの』であっても撮影の中にはいくつもの歪みがあり、番組としてはハッピーエンドに終わろうと実際の生活との乖離が生まれる場合もあります。
カメラや編集が入る以上、そこには『他者の意図』が介在します。
日常で写真を撮るときに笑顔を作ったり、もしくはちょっとしたコントラストを変えてみたり、自分自身ですら『そこにある真実』とはズレが生まれます。

この作品ではそれでもなお、本当のところ謎が残るかもしれない『真実』を追求しようとします。それは言葉で説明されることではない。ただ、淡々と事実を積み重ねようとする姿勢があります。
『祓除』でもあったように、これはメディアとしての自己批判、自己言及なのではないかと深読みしてしまうのです。
果たして、最後の『謝罪』の後に真実に辿り着けたのか、それはわかりません。
それでも、『フェイクドキュメンタリー』というはじめから『虚構』の入るこの作品で、そのようなスタンスが描かれたことこそがこの作品の魅力であるような気がするのです。

……というわけで新年早々結構重い作品について触れてしまったなぁという感じですが、映画館での上映もあったようでだいぶヒットしているみたいです!

まだ見ていないと言う方は是非!
それではまた次回!

劇場情報:https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/entertainment/entry/202501/16348.html
公式X:https://x.com/TXQFICTION

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