ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア 何処までも笑いに満ちていて、感慨に満ちたラストに向かう物語

えのき

どうもこんにちはえのきです。
今回はソナチネと同じく映画館のリバイバル上映で見た映画についての話です。

それは『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』。
99年のドイツ映画でロードムービーなんですが、大学生時代に友人の家で酒浸りに見た作品なんですが、当時たった一度見ただけでずっと心に残り続ける名作です。

人によってその定義は様々で、比較するようなものではないと百も承知ですが『本当の映画』と思わず強い言葉を使いたくなる作品の一つです。
それぞれにバズるようなフックというほどのことはないんですが描かれている全てに生命力がある。凄まじい複線回収とかギミックがある作品ではないんですが、通底するテーマがしっかりとブレずに最初から最後までそれを表現するために無駄を省いた脚本と登場人物が魅力的すぎる。

今回は新宿ピカデリーでリバイバル上映がやっていたということで思わず見にきました。

結果として夜中に海を見に行くことになって帰りの電車を乗り間違えていい歳して終電を逃しました。これが俺の30代か……。

そんなわけで今回はこの作品です。

あらすじ

キリスト像の落下によって開いた戸棚の中から見つけたテキーラ、塩、レモン。
『天国では皆が海の話をするらしいぜ』
末期病棟で出会ったマーチンとルディは余命わずかな時を過ごすしながらそんな会話をする。
「海を見たことがないんだ」
ルディのその言葉から病院を脱走することにした二人。盗んだ車は現金を輸送中のギャングの二人組のもので海と人生の終わりへ向けた珍道中が始まった。

どこまでも『生きる』煌めきに満ちた余命もの

さて、この作品のジャンルをなんと形容したら良いんでしょう。

上で書いたように『ロードムービー』とも言えるし、二人に確かに存在する死の気配から『余命もの』と言っても間違いではないはずです。物語の入口と出口にはしっかりと『死』があって、そこを何とかしようとかいう話ではありません。
そうであるのにこの作品のこと『余命ものだよ』と人に伝えたくないんですよね。『ロードムービー』というのも全く嘘ではないし、人に紹介する時にはついそう言ってしまうんですが、簡単にカテゴライズしたくないな、と思う魅力がある。

『余命もの』みたいにカテゴライズできる、そういう作品でも好きな作品はもちろんあるんですが、この作品にはそんな湿っぽさは何処にもないから。
映画館であらためて見て思いました。この作品、どこまでも喜劇で笑ってしまうんですよね。
映画館でも自分以外にも笑い声が聞こえるくらいに、しょうもないことをやっているシーンが大半になっている。

「余命ないしもうやりたいことやろうぜ!」とやけっぱちとも言えるシチュエーションなんですが、決して絶望からの逃避には見えないんですよね。というか「やりたいことをやるぜ!」みたいなノリで出てくるのが「海を見にいくぞ」なのがオシャレすぎる。そんなこと言えるクールさが欲しいよ。
本当にわずかな時間に過ぎないのに、「海を見よう」という何処にも利益のない行動に全力をかけている。
荒れていた生活に見えるマーチンはともかく、最初は乗り気でなかった堅実な生き方をしてきたであろうルディもまたその旅で瞬く間に活力に満ちていく。
それは決して『奇跡の回復』な作品ではありません。何処までも『死』が存在していて時折起きるマーチンの発作は確かなその存在を感じさせる。
それでも二人の何気ないやり取りが全て楽しそうで、それは絶望からのそれではなくて確かに人生を謳歌している人間のそれなんですよね。
この作品を見終わった時に感じるものは命の儚さでも、諸行無常でもないと思うのです。
たった数日、二日三日程度の短い時間。それであるのにそこに『人生』の煌めきの全てが存在している。少なくとも、それを感じることが出来たと見た人間が思うことができる。
それが『映画』という存在の素晴らしさの一つだと思うんです。

ふと気づくと驚くほどに語られていないバックグラウンド

さて、「全てが存在している」と書いておきながら見終わってから少しして思ったことがありました。
「そういえばルディの過去もマーチンの過去も何にも知らないな」
メインの登場人物二人について、考えようとすると驚くほどフィルムに収められた映像以外を知らないことに気づきます。もちろん映画なので上映時間以上のことを知らないのは当然なのですが、作中のことを振り返るとこの作品、二人がほとんど過去のことを語らないんですよね。
ルディが父親も自分と同じ病気で死んだことや、マーチンが母にキャデラックのことをプレゼントしたい動機のエピソードくらいです。
結構なゴロつき感のある身なりと振る舞いでありながら妙に詩的なロマンチストな面を感じさせるマーチンと、優等生的ではあるけれどやりたいことを書き出すと結構俗っぽいルディというキャラクターは開幕でわかるというのに、「なぜこのキャラクターはこういう人物になったのか」という情報は存在していない。

これは余命数日、上映時間にして約90分という制約だから生じた空白でしょう。
だけど、不思議とそこにこの映画の良さがあると思うのです。
もしもルディやマーチンの過去を詳らかに語るとしたらどうでしょう。
ルディのそれまでの堅実な生き方に好感を持つ人もいれば、そこに退屈さを感じる人もいるでしょう。

マーチンが荒れた生活をしてきたであろうことにも理由はあるかもしれない。でも、そのエピソードが具体的に描かれていたとしたらそれを好意的に見る人もいれば反感を持つ人もいるでしょう。
そのような登場人物のバッグボーンを描くことを無駄だとは思いません。それ故に優れていて、厚みのある物語を作ってきた映画だって無数にある。
それでも『余命わずかな男二人が海を見にいく』というシンプルなプロット、そして二人が交わし、育んでいく絆の中にはそのようなものは不要だったのでしょう。
物語の入口で提示した出口へとまっすぐに進んでいくストーリーは、一つ間違えば味気なくなるところなのですが、二人のちょっとしたやり取りやドタバタは見ているうちにわずか90分であるというのに随分と長い間、二人を見ていたような気持ちにさせます。最初は冗談のような、道中のほとんどが笑える喜劇であるというのに、その終わりに近づいていく様には切なさがあります。

二人だけでない様々なユーモアに満ちた人間讃歌

本作、語ろうとするとメイン二人についついフォーカスしてしまうのですが、出てくるキャラクターがいちいちツボにハマります。
二人に車(それとお金)を盗まれてしまったために追いかけ回すことになるギャングの下っ端二人も何処か抜けているデコボココンビで面白いですし、妙に嫌な性格をしている雰囲気の警官も印象に残ります。
メインに近いところだとギャングや警官なのですが、マーチンとルディにチップとしてかっぱらったお金で札束を渡されるや否や「仕事を辞めるんだ!」と意気揚々とホテルから出ていくホテルマンなんかもいて、今だったらX(旧Twitter)なんかで『早くこれになりたい』とか言われてそうな味があります。

他にも脅されたり人質になった人達といったちょっとしたモブに至るまでユーモアで溢れているんですよね。
そして終盤で出てくるギャング達の親玉であるカーチス。
マーチンとルディの二人がカーチスと出会った時のやり取りに、この映画の人間味のようなものが凝縮されている気がします。
始まりが末期の病という希望がないような入口。そうであるのに、彼らが生きていて歩んでいく世界には確かに希望と優しさと笑いが溢れている。
それは確かな人間の営みの光景なのかもしれません。
この物語は確かに海という自然の存在の圧倒的な美しさを見に行くための物語で、最後に辿り着く海についてとやかく言うことなんて存在しません。
それでもただ海がそこにあったからこの映画が素晴らしいのではない。
そこに至るまでの二人を中心としためちゃくちゃだったり、オシャレだったり、しょうもなかったりする全ての営みが趣深く、愛おしいからこそいつの間にか二人に夢中になって、二人の道程の先を祈るようになって、感慨深いラストへと繋がっていくのでしょう。

そんなシンプルな物語でありながら無限に語りたいことの出てくる『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』ちょっと調べてみたら各種配信サイトで追加課金のレンタルでは見れたりU-NEXTの定額プランだったら今(三月一日時点)では見れるようです。
まだ見ていない人はいかがでしょう?

それではまた!

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