彼はいつでも「過去の偉人」ではなく「現役の友人」なのだ──『スーパーマン(2025)』

マシーナリーとも子

ジェームズ・ガン監督の『スーパーマン』見てきたよ~。大変に良かった。
いや、スーパーマンって好きなんですよ。好きなんだけど、そういえば全然真面目に向き合ってこなかったな……。そもそも映画を全然見てない! クリストファー・リーヴの映画も見たこと無いし……あ、でも『スーパーマン リターンズ』はテレビでうっすらと見たな……。あと『バットマン』の邦訳コミックは結構持ってるんだけど、『スーパーマン』は全然持ってない。だから原作のイメージも『バットマン』に客演したときとか、あとはクロスオーバーものの印象しか無いっちゃ無い……。あ、でも『月刊スーパーマン』は持ってるわ。この本邦訳がヘンですげーおもしろいんですよ。

そんなうっすらとした触れ方でも、それでも自然に敬意と親近感を覚えてしまうのが彼・スーパーマンという、超人の代名詞である存在であり、うっすらとした触れ方だったとしても、世の中に無数に広がる──パロディなども含めた──彼の因子がそこら中を飛び回っているから、どうしても本能レベルで愛してしまうのだ。
以下は『マン・オブ・スティール』公開とスーパーマン誕生75周年に併せて作られた記念動画なんですけど、めちゃくちゃいいんですよ。にわかでも泣けてしまう。

なぜ我々はスーパーマンを好きになってしまうのか。
やっぱね、彼ってものすごく優しいんですよ。愛の人なの。すべての生命に無償の愛を無自覚に振りまいているんですね。

例えばね、バットマンって……決してバットマンが優しくないとは言わないけど、バットマンも間違いなく人類を愛してはいるけども! でもやっぱりブルース・ウェインってある種のニヒリズムに囚われているところがあるじゃないですか。

本作『スーパーマン』劇中でもMr.テリフィックがほかのヒーローの体内にGPSトラッカーを埋め込んでてヒかれてましたけど、バットマンだってほかのジャスティス・リーグのメンバー全員の弱点集めとかしてますからね。つまりブルースは根底に、まず疑うがある人なんですね。まあそもそもバットマンって探偵だからな……。

が、スーパーマンは違うんです。彼は疑うということをしない。まず信用する、が根底にある。まず愛する。その朴訥とも言える人間性がスーパーマンの魅力なんですよね。

で、今回の映画もまさにそういう話なんですよ。

スーパーマンは人を疑うということをしない。
だから常に「えーっ!? なんでそんなことすんの!?」と本気で困惑している。
レックス・ルーサーが自分を妬んで陥れ、殺そうとしてくるのが理解できない。
SNSで自分が炎上するのが理解できない。
恋人が自分にいじわるなインタビューをしてくる意味が理解できない。
人命を救うために、他国の兵器を壊して大統領を脅かすと非難されるということが理解できない。

何故だろう。
生まれたときから最強になることを運命づけられた男は、人を妬んだり恨んだりするということを知らないからだろうか?

いや、そうではない。
決してそういうことではない。
彼が優しく、人を疑わないのは、ジョナサンとマーサという平凡だが優しい夫婦から愛情を持って育てられたから。ただそれだけに過ぎないんです。
そしてそれは、超人じゃなくても人はこれだけ優しくなれるはずだという願いにも思えます。

そう、なんか本作ってね……こういう言い方はある種意地悪かもしれないけど、「楽観的」なんですよね。

SNSをベースにした社会の描き方なんてその最たるもの。スーパーマンを炎上させてたのはあくまでルーサーの企みで、ルーサーは悪いやつでした! って報道が流れた途端、市民たちは手のひらをクルーと返してやっぱりスーパーマンって最高!!! って即なっちゃうわけです。お前らさっきスーパーマンに空き缶投げつけたりしてたよなあ?!

ジェームズ・ガンが公言したように、本作は(そしていろいろ報道されている通り、『スーパーマン』のそもそもは、でもあるのですが)「移民の物語」です。
スーパーマンはアメリカ人でなく、地球人ですらない外からやってきたものだからこそ脅威だ。そんな存在は裁き、追放するべきだ……というゼノフォビアが、排外主義がアメリカ国民に広がっていくさまが容赦なく描かれます。そして、そうした動きを扇動しているルーサーは、だからこそ本作の悪なのだという描かれ方をしている。本作はシンプルに痛快でおもしろい一方、こうした現代社会が抱える問題を結構な勢いで容赦なく描いています。

が、不思議とそこに説教臭さが無いんですよね。
嫌さがなく、軽い口当たりで咀嚼することができる。
これはなんでなのかな~ と思ったんですが、この映画が「見た人を啓蒙しよう」という意識でなく、「みんながこうなれたらいいよね」という願いで作られたからじゃあないのかなと思いました。
みんながルーサーのように他人を憎んでいるわけではない。そういう、一握りの悪いヤツにみんなは操られているだけで、本当はクラーク・ケントのような優しい心を持っている。だからそういう世界になればいいよね。そうなれればいいよねという願いから生まれた映画だから自然と「俺も……優しくなるぜ!」と思えたのではないでしょうか。
本作の最終盤で、スーパーマンがルーサーにぶつける言葉はまさにこの映画のメッセージそのものではないでしょうか。

そして、それこそが「スーパーヒーロー」であるという話でもあったと思うんですよね。
本作はスーパーマンを「神々しく」描くことに躊躇がまったくない。
スーパーマンは神のように力を行使し、その力はただの人間にはまったく制御できるものではない。そして戦争状態に陥ってる地域の人間は、スーパーマンの旗を掲げて助けを求める。神に救いを求めるように。

が、同時にスーパーマンとはあくまで人間であるということも強調されて描かれています。彼はクラーク・ケントで、恋もなんかうまくいかないし、犬は言う事聞かないし、口喧嘩になると嫌になってスネて帰っちゃうような不器用な人間なのだというのがひたすら描写される。

最初は、この2面性はどういうことなのかな~ って不思議だったんですよ。でも、見終わってからようやく「ああそういうことか…」と合点できました。
このふたつの要素は矛盾してるのではなく、そのふたつの要素を同時に併せ持っているのが「スーパーヒーロー」なのだという話なんですね。

神は強大な力を持ち、人々を助け信仰を集める。いっぽうで、人を裁いたり天災を起こしたり文明を崩壊させたりする残酷な一面もあります。
だけどスーパーヒーローはそうじゃない。彼らは、力は強いけど我々と同じ考えや悩みを持つ人間で、だからこそ信仰がなくても助けてくれる友人なのだと。
そういう話なんだな。

やっぱ愛。愛ですね。人類を愛し家族を愛し隣人を愛そう。
そんな衒いのない愛の物語だからこそ、恋人同士がチューして終了! なベッタベタの終わりかたをしても、まったくイジる気が起きない! いやむしろ正しい。こうであるべきだ。

本作、当初は『スーパーマン:レガシー』というタイトルだったらしいが、脚本が完成した時点で『レガシー』取ったほうがいいだろ、といまのタイトルになった模様。だがそれも納得のお話でしたね。スーパーマンはいつでも、偉大な先人などではなく現役のスーパーヒーローなのだから。

そんなわけで見れば愛と優しさが湧いてくる、真の意味でのヒーロー映画と言えるでしょう。そして相変わらずジェームズ・ガンの映画はユーモアとチャーミングさに溢れていてずっと楽しい。とくにほかのシリーズとの関連も無いので──多少、「みなさんスーパーマンは世界一有名なキャラクターなので細かい点は説明しなくてもご存知かと思いますが……」みたいなところはあるんだけれども──まあ、「こういうものなのね!」で済む範囲なので迷わず見ましょう! なんかそろそろスクリーンも『鬼滅の刃』で満ちはじめたので急いで見ろ! 早く! 

他のスーパーヒーローは出る! でもバットマンもワンダーウーマンもフラッシュもいません! が……グリーンランタンはいる! でもハルじゃなくてガイです←超英断 頭良すぎる 名采配 
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