――私、オルガ・ヘプナロヴァーは、あなた方の残虐性の犠牲者。安すぎる代償としてあなた方に死刑を宣告する
オルガ・ヘプナロヴァーが『破裂』したのは1973年のこと。彼女は冒頭で引用した声明文を新聞社へ投函し、それからトラックで歩道を暴走することで、大勢の市民を殺傷した。
かつて、ある少年犯罪者は自らを『透明な存在』と称した。オルガもまた、社会から孤立した透明な存在だった。
『私、オルガ・ヘプナロヴァー』は彼女がその判決に至るまでを描いた実録映画だ。
主演に『ゆれる人魚』で愛らしい人魚役だったミハリナ・オルシャニスカを据え、オルガを取り巻いていた世界を、モノクロームの画面でひたすら無機質に描いていく。
オルガに関する詳細はインターネットで検索すればいくらでも調べられる。『トラック通り魔の元祖』、『チェコスロバキア最後の女性死刑囚』、あるいは『支離滅裂な精神破綻者』として。
そんな恐ろしい犯罪者を理解する上では、作中では意図的に排除された1970年代のチェコの時代背景を知ることは大きな助けになる。まずは、そこから始めていこう。
灰色の時代
なぜオルガは凶行に至ったのか? その問いかけにもすっきりするような答えは用意されていない。オルガが明示的に『あなた方の残虐性』の犠牲となるシーンは冒頭にあるリンチのみで、他は極めて暗示的にしか描写されない。
ただ、オルガが実際に口にした『プリューゲルクナーベ』という言葉はその理由の一端となるだろう。いじめられっ子とも訳されるこの言葉は、より原義に近づけると『鞭打ち少年』『負い小姓』となる。社会的身分の高い貴族子弟を罰する際、彼らの代わりに『罰を押しつけられた』のがプリューゲルクナーベだ。
オルガはただいじめられるだけではなく、何を押しつけられたのだろうか。
作中では語られることのない1970年代という時代――当時のチェコ(当時はチェコスロバキア)はプラハの春の反動でソ連に侵攻され、最悪の監視社会だった。そうした時代の中で誰が他者に手を差し伸べるだろうか?
また70年代の同性愛者は、今よりも更に困難な状況にあった。西側ではハーヴェイ・ミルクが射殺されたにも関わらず、犯人はホモフォビアからあまりに軽い罰を下されただけだった。
東側もまた、ソ連で数万の人々が同性愛者『容疑』で刑務所送りになっていた。
こんな時代に同性の恋人を失った時、新たな出会いに希望を持てるだろうか?
オルガは凶行の原因を時代に求めない。『私、オルガ・ヘプナロヴァー』は大量殺人者を美化も擁護もしない。しかし、『その時』は灰色の時代だった。社会の歪みは正されることなく、誰かに押しつけられた。
こうした背景を知った上で映画に触れれば、白黒の画面が更に重苦しく、息苦しく感じられるだろう。
喜び(エンターテイメント)のない世界
殺人者はエンターテイメントにされる。
おどろおどろしい二つ名が与えられ、インターネットにその来歴が保存され、主役で映画にされ、動画サイトで配信され、人々に語られる存在となる。
どれだけ良識ある人間に眉をひそめられようと、殺人という日常から遥か遠くにあるようでいて、不気味なほどに近いその行為は、スリルやホラーを求める人々にとって暗い娯楽なのだ。
恥ずかしながら私も殺人者の逸話に親しんできた。平山夢明の『異常快楽殺人』をうきうきと読んだ。映画『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』のしょっぱさ溢れる異常中年達に笑った。多くの伝説的犯罪者が登場人物のモデルになっている『ゴールデンカムイ』のファンだ。
しかし、『私、オルガ・ヘプナロヴァー』はそんなエンターテイメント性を拒絶した作品だ。ウヒヒヒ……と犯罪者を眺めに来た者は平手打ちを食らうことになる。
色彩のないモノクロームの画面と、あるワンシーンを除いて貫かれる無音は淡々とオルガの中の怒りが鬱積し、そして決定的な破裂を迎えるまでを描き出している。
ある種のサビ(暗い娯楽を愛する不道徳な人間として、あえてこの表現を使わせてもらおう!)であるトラックによる大量殺人のシーンもごく短いシーンの内にあっけなく遂げられてしまう。 ぽい、と投げ出すように行われた殺戮は観客にもその当事者にも恐怖でなく困惑をもたらし、現場に駆けつけた警官もオルガに事故かと問いかけるほどだ。
あっさりと終わった大事件のそれから先も蝕まれていくオルガが描かれ、その処刑では誰もが彼女から離れていく――観客に寂寞とした感情だけを残して、映画は終わる。
レズビアンの犯罪者を描いた映画であれば『モンスター』がある。
トラックを用いた無差別殺人で、当時日本に住んでいれば否が応でも思い出すあの事件をモチーフにした映画としては『ぼっちゃん』などがある。
『私、オルガ・ヘプナロヴァー』が他の映画と隔絶しているのは、やはり徹底したその無音・無彩色だ。
音楽も色彩もない荒涼とした世界は何からも救いを得られなかったオルガの心象世界に重なる。スクリーンに向き合うのは彼女の感じていた世界と強制的に同調することでもある。その体験は『私、オルガ・ヘプナロヴァー』でしか味わえない。
そしてこの映画を見た者は自分にもドス黒い衝動があるのではないかと、観客に己の深淵を覗くことになる。
心を病めば、喜びも失われる。平然と生きている他の人間が許せなくなる。それは誰でも陥ったことのある心理状態ではないだろうか。
オルガ・ヘプナロヴァーを取り巻いていた無音・無彩色の世界は現在も存在している。
無理心中めいたスプリーキラーは現代でもたびたび現れる。彼らを『無敵の人』と切り離すのは簡単だろう。
これまでの人生で周り全てが敵に見えて、すべてが無価値だと感じたことのない人間は、きっと初めから『私、オルガ・ヘプナロヴァー』を見ようとは思わない。
タバコで煙る車内で、我々はオルガと共に自分にとっての喜びのない世界を睨めつける。
同時に我々は犯罪者を安易に消費する幸せな人々としてオルガに睨めつけられる。
かつて少年犯罪に用いられ、すっかり陳腐化した『心の闇』とはどういうものなのか、『私、オルガ・ヘプナロヴァー』は教えてくれるだろう。
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