映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を通じて感じた、私とSF小説との交流

  • 2026年3月29日
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マシーナリーとも子

「見るな」のタブー

 こんにちは。「『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は超面白いのでみんなに読んでほしいけど、でも内容の話は一切言えないわ……」と口を噤んでいた側の者」です。だがわかってほしい。私の言う「ネタバレだから言えないわ…」は、本作に限らずなんというか、空気感とかマナーとかルールとかそういうのでは一切なくて、ただ単に「俺と同じ体験をしろ!!!!!」という強烈なエゴだけで吐いてるだけなんです……。

 この映画の予告映像が流れたとき、大いに話題になった。原作既読ファンたちが一斉に「原作読んでないなら見るな〜!」と騒ぎ出したからだ。そんなことがあるか。だが事実として、あった。

 

 映画の予告映像は映画を見てもらうために広くいろんな人に半強制的に見せるために作られる。そして流れる。ほかの映画が始まる前の予告編で、テレビで、街頭で、インターネット上で……。そしてその内容は映画の内容を噛み砕き、凝縮し、「この映画はこういうおもしろい映画なんですよ! さあ見たくなりましたよね? 見たくなったらぜひ劇場へ……」と誘うために作られており、さらに言えば「映画化作品」、もっと言えばメディアミックスというのは、原作作品を読んだことが無い人に、広くその作品を知ってもらうために作られるものだ。

 だからそれを、すでに原作を読んでいるヤツらが、いちばんのターゲット層である原作未読の人びとに対して「見るな〜〜!!!!!」と騒ぐのは完全に狂った行為であり、配給側からすれば営業妨害も甚だしい行為であるのだ。

 白状しよう。私も「見るな〜!」と言った。
 なぜかと言えば……もはや今更ネタバレもクソも無いだろうから、いまは抵抗なく書いてしまうが……本作の最重要キャラクターである「ロッキー」がいきなり顔見せしたからだ。それに対して「おいおいおいおいおい初報でもう出しちゃうのかよ!? 本編まで我慢だろ!?!?」と超絶ビビってしまったために、反射的に「みんな! 見るな〜!!!」と騒いでしまったのだ。

アンディ・ウィアーというプリンス・カメハメの登場

 困ったのはこの映画の広報担当の方々だろう。なんだって原作を読んだ奴らが、わざわざ原作未読の人に映画の予告を見るな! なんて言い出すんだ? と。

 そこで彼らは奇策を繰り出した。

 原作者アンディ・ウィアーを引っ張り出し、彼自ら「ロッキーのネタバレなんか気にするな」と言わせたのである。これには原作既読の我々もキン肉マンスーパーフェニックス*に成らざるを得なかった。

*中国の諺で「あんたほどの実力者がそういうのなら……」の意

 さらにそれだけに留まらず、SNS上で同作の話をしているアカウントを見つけては定期的にリプライを送るというえげつない行為に及んだのである。お前黒暗森林理論だったら死んでるからな!?!?!?

予告だけに飽き足らず

リマインダーのようなものまで

さらには吹き替えのお知らせまでも 針が落ちる小さな音も

 よほど我々が口を閉ざしていることが気になったのだろう。もちろん、それは承知だ。現代のドパガキ向けSNS情報社会ではクチコミが広がりやすい空気ほど大事なものはない。1000の素人の口コミは、万の公式PRに勝るのが現代社会なのだ。だから我々のように、ファンのくせに口を噤むという行為ほど邪魔で余計なお世話な行為はない。だが繰り返させていただきたいが、我々はただ、己のエゴで黙っていただけで……そしてそのエゴを満たしつついい感じにみんなに広める手段を知らなかっただけで、決して作品の成功を望んでいないわけではないのだ。

私はひたすら『プレデター2』を頼りに薦めるという遠回しなことを3年間し続けました

 だがどうして我々は……ロッキーの話を避けたのだろうか?
 アンディ・ウィアー自らによるロッキー擦りを見続けていくうちにそうした疑問が浮かんできた。そして、やがて自分たちが問題にしていたのはロッキーそのものではなく、物語の構造そのもの……本作の原作小説が「小説」だからこそできる表現に満ちていたことに気づいたのだ。

私とSF小説

 伴名練の『なめらかな世界と、その敵』というSF小説がある。
その冒頭は次のような感じだ。

 これを一読して、理解できるだろうか。私は理解できなかった。混乱しながら読み進む。読んでも読んでも書いてあることが理解不能で、頭にどんな情景を思い浮かべればいいのか困ってしまう。だが、徐々に情報が開示されていく。そうすると、だんだんこの作品の奇妙な世界観がだんだんと脳が馴染んできてチューンされる。やがてそこには想像したこともない光景が広がっている──。いろいろな意見はあるだろうが、私はこれがSF小説のおもしろさのキモだと思う。もちろん、こうした体験は現代劇やファンタジーものでだって得ることはできるが、私はSFの科学的ニュアンスで繰り広げられるこの感覚が好きだ。

 だがもちろん、こうしたおもしろさは誤読も呼び起こしてしまう。個人的な誤読を2例紹介しよう。

 まずはフレドリック・ブラウンによるSF小説の古典作品『天の光はすべて星』の冒頭より。

 私はこれを読んだとき、同作がSF小説で……そしてタイトルや表紙から、おそらく宇宙がテーマのSFなのだろうとしか考えていなかった。だからこの文章を読んだときにこう思ってしまったのだ。
「主人公は裸で、しかも一本足なのか! なるほど、この小説の主人公は地球人とはまったく違う姿の宇宙人なんだな」と。

 その早とちりは読み進めるとすぐに正された。主人公マックスは、かつて事故で片脚を失った平凡な地球人だった。風呂では義足を外しているので一本足になっていただけだったのだ。

 もう一例紹介しよう。私が大好きな作家、ダグラス・アダムズの『ダーク・ジェントリー』シリーズ第2作より、下記の文章を読んで見てほしい。

 私はこれを読んで、以下のマンガのような勘違いをしてしまった。皆さんはどうだったろうか。

 そもそもオーディーンが隻眼というのを忘れてしまっていたのだ。

映画と小説はジャンルが異なる

 そして、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の原作小説はまさにこの味を存分に楽しめる作品だった。
 主人公は記憶喪失。そして目覚めた場所はまったく謎めいた場所……ここはどこなんだ? 主人公は何者なんだ?

 これまで述べたとおり、これは文字しか伝える情報が無い小説ならではの表現だ(実際は、表紙は宇宙だし本編が始まる前にロケットの構造図が載っているので宇宙ものSFというのは見当がついてしまうのだが)。否が応でも映像という形で情報が目に入ってきてしまう映画ではそもそも不可能な表現なのだ。

 だから、彼らは初っ端からロッキーを公開した。
 この原作小説は、限られた情報とともに主人公の推理をともに追体験できるSFミステリだった。だがそれが、ロッキーとの接触をもとに大きなツイストが加わりジャンルが急速に移り変わる。

 だが映画は、映像へとメディアを移したことでSFファーストコンタクトバディムービーへとその様相を変えた。小説では大幅に尺を割いていた科学的根拠描写も鳴りをひそめ、あくまで「なんか意味のあることをしているな」というのが最低限伝わる映像表現へと変わり、なんならロッキーの科学者描写すらも薄まっている。映画での彼は共同研究者というより、グレースの考えた推論に対してプロトタイピングを行う技術者といったテイストが強くなったように思う。もちろん、愛嬌あるアクションで映画のマスコット的役割を果たしていることも否定できない。

 それはどちらがいいとかどちらが悪いというわけではなく、どちらも媒体にしたいしてベストな方法をとった結果にすぎないのだ。そしてそれを示すには、ロッキーを映画でのサプライズとせず初手から積極的に出していくのがベストだったのだ。広報の判断は正しかった。

原作も! 読んでね〜!

 そう、彼らは正しかった。
 なんなら、我々にしつこくリプライを飛ばしてくるのすら正しかった。
 人は、本当は豊かなものや「本当に」おもしろいものに触れようとしたりはしないのだ。結局、単純接触時間が長かったものを「思い出し」、そして行動に移す。
 だから彼らが我々にしつこくリプライを飛ばし、我々が「なんか『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の映画ってさあ……どうせめちゃくちゃおもしろいんだろうけど……なんか宣伝の仕方がイヤじゃない!?!?」と騒いだことで、本作の話題はSNS上に広まり、ロッキーのかわいらしさをみんなが知り、そして映画は成功した……。オーケイ、なんか悔しいが、それこそが真実で正解でそしてもっとも喜ぶべきことだ。私たちのエゴなんかはどうでもいいこと。すべては映画がヒットし……地球と40エリダニAbが救われ……そしてみんなが原作小説も読み、やがてほかのSF小説も読むことがもっとも大事なことなのだ。

 ただ……もし本作の広報担当をひっぱたきなるたびに5セント硬貨を貯めていたら……うーん。今頃はソックスに詰めて広報担当をぶん殴れるくらい溜まっていたに違いない。

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