固有名詞を超えて『花束みたいな恋をした』/『押井守』『ゴールデンカムイ』『宝石の国』等の固有名詞が意図するものとは?

『花束みたいな恋をした』

どうもこんにちはえのきです。

先日公開された映画『花束みたいな恋をした』
『東京ラブストーリー』や『カルテット』などの坂元裕二が脚本ということで注目を集めていますが、これがとても良い映画でした。
そんなわけで今回は『花束みたいな恋をした』について書いていきます。
今回はガッツリネタバレを含んだ記事となります。

それではあらすじから。

あらすじ

向こうの席に神様がいると彼が言う。
京王線・明大前駅で終電を逃したことをきっかけに出会った山音麦と八谷絹。深夜営業の店で偶然見かけた押井守に二人だけが気づいたことから意気投合。音楽、小説、映画、嘘みたいな好みの一致から、一気に距離が縮まった二人は恋人となる。
就活時期のつまづきを契機に同棲を始めた二人は好きなパン屋を見つけ、猫を拾い、二人の時間を紡いでいく。
しかし時間はただ過ぎていくわけではない。麦のイラストレーターという夢に理解を示さない麦の父、就職を求める絹の両親、うまくいかない現実。
麦は絹との楽しい日々の『現状維持』を目標に掲げ、就職活動を始めるが、徐々に二人のすれ違いが生まれ始める。
これは、二人にとって〈最高の5年間〉を描いた物語。

本作、あらすじにしてしまうと何てことのない話になってしまうのですがその過程の描き方が凄い。

二人の出会い、強烈なシンパシーを得た瞬間、二人が生活を変えていく様子、そして一致していた価値観が環境の変化により徐々にズレていく様がとても丁寧に描かれています。
誰かと「自分と同じだ!」と気づいた瞬間の嬉しさ、そこでグッと人と人の距離が縮まる感じが何ともリアル。

そしてその描写の質感を生み出しているのは作中での固有名詞の連発でしょう。

出会いのきっかけである『押井守』に始まり『天竺鼠』『今村夏子』『穂村弘』『ゴールデンカムイ』『宝石の国』『きのこ帝国』『舞城王太郎』などなど……

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員会
2015年から2020年までの五年間にスポットを当てた作品ということもあり、当時のコンテンツの固有名詞がマシンガンのように飛び交う。

怒涛の固有名詞のラッシュはそれを愛好する麦と絹にとって同時に独自のキーワードでもあります。それは「自分と同じものを見ている/聞いている』という視座を共有するための言葉として機能します。
その共犯関係は物語内だけに止まらず見ている観客にもまた「これは自分(たち)の物語だ」と引き込む力があります。

物語の冒頭からイヤホンを二人で分けて音楽を聴くカップルに対して、「同じものを聴いていない」とベーコンレタスサンドやカツ丼を例えに用いて「分けたら別のものになってしまう」と力説するシーンがあるように「同じである」ということは『花束みたいな恋をした』では重要なテーゼであるようです。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員会
互いに読んでいた文庫本を見せ合い、互いに見知った本であることが二人の関係を深める。

ただ、私が注目したいのは『花束みたいな恋をした』での固有名詞の濁流というのは強烈な作中の人物たちの関係や、観客としての私たちに対して感情移入を呼び起こしながらも同時に突き放してもいるということです。
描写として固有名詞は頻出するものの、『花束みたいな恋をした』では各コンテンツを深く理解している必要は生じません。あくまで二人の物語として描かれ続けます。作中で語られる固有名詞のコンテンツ自体が、執拗に説明される・語られる、ということはほとんどありません。
固有名詞は固有名詞でしかなく、淡々と言葉として発せられ、流れていきます。
コンテンツに対しての見方という観点で共感を呼び起こすのではなく、その各固有名詞は麦と絹、そして観客の共感を呼ぶ『媒介』としての存在でしかありません。

私の話も少しすると私は『舞城王太郎』が好きなので作中で有村架純演じる絹が舞城王太郎の単語を出した時に「おっ」とはなったのですが、そのシーンでは「自分の物語だ!」とはなりませんでした。
「でも好きなポイントが違うかも知んないしな」ということが脳裏をよぎります。
「同じものを好き」と「同じ価値観」を共有している、というのは近いようで違います。

『花束みたいな恋をした』では2015年〜2020年を生きる若者にとってのサブカルチャーの固有名詞を頻出させ、そして麦と絹という二人の恋のきっかけとしながらも、その距離感は実のところ相当にドライであるように思えます。

麦の就職をきっかけに、価値観がズレていき、二人の関係は終わりとなりますが別れたあとの二人の会話でも実は別のものを見ていた、といったことが示されます。(さわやかを食べたことに罪悪感を覚える麦、覚えない絹。浮気観の違いを匂わす描写など)

二人に強烈なシンクロが生じる一方ですれ違う、という描写は『花束みたいな恋をした』で通底しているものであると思われます。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員会
仕事観の違い、も二人にとって「同じではない」印象的なもの

後半からのズレ、ではないということで序盤のシーンを例にあげると麦の家に絹が初めて訪れた時の会話があります。

絹は麦の家の本棚を見て「うちの本棚じゃん」と言い、麦はそれをとても喜びます。
直前の会話のパートなどから並べられている小説などを見てのコメントと麦は思いますし、実際最初見ていた時は私もそう思ったのですが、よくよく見てみると序盤でもそのすれ違いがあります。
絹の視点では『世界の歩き方』が置いてあるところに意識がいっていて、小説などについては特別に意識が行っていない様子です。
それまでの会話で「共通の趣味が多い」という描写がされているが故に会話としては違和感なく流れますが、「同じものが好き」であっても常に「同じものを見ている」わけではないことが描かれています。

「自分たちは同じだ」という感覚を持ちながら二人が関係を深めていく様子ですら、そのようなすれ違いが通底しています。
では、『花束みたいな恋をした』では他者に感じる「自分と同じだ」という感覚をただの幻想と切って捨てているということかというと、それも違うように思えます。

麦と絹の関係は確かに「同じである」という錯覚、幻想によって始まったのかもしれない。
『天竺鼠』『今村夏子』『穂村弘』『ゴールデンカムイ』『宝石の国』『きのこ帝国』『舞城王太郎』のような固有名詞は固有名詞でしかなくて、それを好む嗜好ですら時の流れや環境の変化で変わってしまうかもしれない。

それでもなお、二人で歩んできた道のりというのは「同じもの」です。
見ていたもの、感じていたものは違うかもしれないけれど、確かに二人で共有した生活は同じ場所、時間に根差すものです。

終盤のファミレスのシーン、かつての自分たちのようなやりとりをする若者カップルを見て涙する麦と絹はそこに確かにあった「かつての自分たち」を見出してしまうから失ったものの重さを痛感します。
二人を知らない人からすればよくあるようなカップルの別れ話。それでもその二人にとっては「二人で過ごした五年間」の終わりです。
そしてそれでもなおその足跡は物語の最後の『2回目の奇跡』によって残り続けると肯定的に描かれます。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員会
物語が最後『2回目の奇跡』に収斂する様は実に秀逸。

さまざまなポップカルチャーだけでは人と人は分かり合えたりなんてしないかもしれない。
それでも、そのきっかけで「同じ時間」を作ることは出来ます。
また、絹のメンタルケアとしての思考法である「2014年のサッカーワールドカップルのブラジルの惨敗よりはまし」と考えることですら、別れ話のあとに麦から別の観点があるということが示されます。
同じではない。でも、同じではないからこそ見える世界がある、そしてそれこそが誰かと誰かの「同じもの」になり得る。

『花束みたいな恋をした』は恋愛を描いた映画ですが、何か共通のものをきっかけにシンパシーを得て、一気に仲良くなるという経験はサブカルチャーを愛好する人にとっては比較的共感を呼ぶ経験ではないでしょうか。
「それ自分も知ってる!」「これが好きな人と自分以外で初めて会えた!」そんな喜び。
自分の好きなものについて、自分とはまた違う同じものを好きな他者と出会って世界が拡張される感覚。そのきらめき。

濁流のような固有名詞で彩られた『花束みたいな恋をした』は固有名詞を惜しみなく使いながらその実、固有名詞の先の普遍的な感情を掴み取った映画なのではないでしょうか。
「恋愛映画興味ないんだよな〜」という方も、もし上記のような感覚に覚えがあれば見てみるのも良いのではないでしょうか?

それではまた次回!

最新情報をチェックしよう!