霊能力者ネオの『力』とは何か?
※ここからは他の白石監督作品のネタバレもあります。
さて、作中、いや白石監督作品に登場する霊能力者で間違いなく最強クラスであるネオ。
彼の『力』とは何なのでしょうか。
作中でそのバックグランドについて聞かれても。
「俺は俺を信仰してるよ。これ俺の力だからさ。神とか仏とか、馬鹿馬鹿しいよな?」
と語りません。1
カルトの霊能力者雲水、龍玄はそれぞれ特定の宗教に基づき、言葉を紡いで霊能力を行使している描写がされているのに対し、ネオは一切の詠唱の描写を行いません。
彼の能力の根元は何か?
私は白石監督作品にたびたび現れる「神」(と呼ばれる存在)の力ではないかと考えています。
『ノロイ』『オカルト』『コワすぎ』『ある優しき殺人者の記録』果ては『貞子VS伽椰子』に至るまで、白石監督作品では共通する存在がたびたび描写されます。(最近では『地獄少女』なんかも関連している節があります)
ミミズのような存在が蠢く謎空間です。
そして蠢くミミズ(のようなもの)『ノロイ』では霊体ミミズと称されますが、『オカルト』『ある優しき殺人者の記録』では「神」と称されます。
そしてこの「霊体ミミズ」=「神」と称された存在は『カルト』において敵対する怪異でありながら、それに対立する霊能力者ネオの能力により現れる存在と酷似しているのです。
白石監督作品における「神」は人間の善悪を超越した存在です。
『オカルト』などではその超越した存在により人々を「地獄」を味合わせる一方で『ある優しき殺人者の記録』では願いを叶える存在でもあります。
『戦慄怪奇ファイルコワすぎ!』ではラスボスに関わる存在でありながら、4章の真壁先生、最終章の江野君など明らかにそれを自らの能力として利用する人々の存在もいます。
この違いはなんでしょう?
これには『戦慄怪奇ファイルコワすぎ!』や『貞子VS伽椰子』で語られたロジックにより説明が出来ます。
私の考えを書きます。
白石監督作品における「神」とは膨大なリソースそのものであり信仰心や意思、畏れにより具体的な形や事象を伴って現れる存在なのです。
『戦慄怪奇ファイルコワすぎ!』ではこのように語られます。
「創作されたものに触れた人々のイメージのエネルギー。つまりイマジネーションの集積というものが存在しないはずのお岩さんという幽霊に力を与えてこちら側、現実化してしまったということですね」
そして『貞子VS伽椰子』でも貞子について同様のロジックで説明が成されます。
「おそらくこの都市伝説に触れた者たちのミームがマインドウィルスと化し集合無意識の具現化が起きたんだ」
このロジック故に『貞子VS伽椰子』の貞子の呪いは原典の7日間の呪いではなく「三日で死ぬ」などの違いが生じていると考えられます。人々の意識により「人を呪う存在」として貞子が強く表出したからです。
『戦慄怪奇ファイルコワすぎ!』『貞子VS伽椰子』どちらにも共通するのは「人々の意識が集まり具現化している」という点です。そして白石監督作品の怪異は、大小あれど戦いの最中に「霊体ミミズ」の片鱗を見せます。
つまり、こう考えられないでしょうか。
人々の意識の集積により「神」という膨大の力の塊が形を取っているのではないか、と。
『戦慄怪奇ファイルコワすぎ!』では様々な都市伝説や怪異は一つ線に収束します。口裂け女、河童、トイレの花子さん、お岩さんなどが全く別の存在である怪異が一つの背景へとつながります。
『貞子VS伽椰子』では貞子と伽椰子は混ざり合ってしまいます。
それは、全ての怪異の根源が同一の物=神だからではないでしょうか。
しかし根源=神であり、怪異の源泉であるのならば数々の奇跡はどう説明されるのでしょうか?『コワすぎ』『ある優しき殺人者の記録』の時空間移動など……人々へ恐怖を与える存在ではないのか?
そう、「神」の力は決して怪異だけに転用されるものではないのです。
それを前提として考えると白石監督作品における「霊能力」も同様のロジックの存在であると言えるのではないでしょうか?
宗教として多くの人々の「信仰」を集め、それにより形を伴った術を扱い、怪異に対抗する。
白石監督作品における「霊能力」や「奇跡」は「神」の力をまた別の側面で具現化したものではないでしょうか。
コワすぎシリーズなどで様々な霊能力者がいるのも当然です。それぞれの信仰の形により、具体化されるものが変化するのですから。また都市伝説のように多くの意識、つまり信仰を持つ存在がより強固に存在を持つという観点でいうのならば宗教、宗派といった物もまた同様でしょう。信じる人々が多ければ多いほど、そこに集積される「意識」というのは膨大で、強くなり、神々へとアクセスが容易になるからです。
宗派により形式が違うのはある種の縛りであり、「決められたロジックを踏む」ことで本来制御の出来ない神の力を自らの力として行使出来るようにしているのではないでしょうか。
では霊能力者ネオは?
いかにしてその能力を身に付けたか、どのようにしてそういった存在となったか。
その過程は描かれていません。
しかし、「俺は俺を信仰してるよ。これ俺の力だからさ。神とか仏とか、馬鹿馬鹿しいよな?」と言う言葉。
白石監督作品における怪異や霊能力の成り立ちを考えるとこう言えるのではないでしょうか。
霊能力者ネオは強靭な「意思」により「神」の力を一人でこの世に具現化させている、と。
霊能力者ネオは力の使いすぎをセーブする節がしばしば描かれます。使用時には手袋を外し、物語の終盤では「俺は今、力が出ない」など使用にも限度があることが示唆されます。
限界を越したデメリット、それは『オカルト』などで描かれたような「神」は制御出来ず飲まれた人々にとっては地獄に他ならない絶望だからとも考えられるでしょう。(備考:霊能力者ネオの出自そのものが謎のため、本人が既に人外の可能性もあるのですが……)
なぜ、霊能力者ネオにそれだけの「意思」があるのでしょう。
逆説的にですが、霊能力者ネオは作中で人々を救います。怪異によって襲われる少女や、あびる優たちを自らの能力で(おそらく大きなデメリットを背負いながら)助け続けます。
「怪異と戦い、人を救う」そんな強い「意思」により霊能力者ネオは「神」の力を制御化において扱っているのではないでしょうか。
『カルト』はヒーロー物と言われたり、霊能力者ネオを指してヒーローと呼ばれたりします。
ただ強いから霊能力者ネオはヒーローなのではない。
行動により浮かび上がる内に秘めたその「意思」こそが彼をヒーローとして成立させているのではないでしょうか。
とにかくオススメです。カルト。
と、ここまで長々と紹介というか『カルト』語りをしてきましたが、細かいことを抜きにしても怒涛の展開があり唯一無二のホラー(?)映画となっています。
ここでも書ききれない小ネタなどが多くあります。あびる優たちと霊能力者ネオのやりとりがコミカルであったり、カメラの前でポーズを決めたりして妙に茶目っ気のある霊能力者ネオなど……
いや本当好きなんですよ『カルト』とにかく密度があります。
ホラー映画見る時「大丈夫……バッドエンドで終わってもネオ様がなんとかしてくれるから大丈夫!」って自分に言い聞かせながら見るくらいに好きなんですよ……
みんな『カルト』をマジで見てくれ、それで色々考察とかして読ませてくれ……もっと『カルト』について理解を深めたいんだ私は……!
……とまぁ、ほとんど記事で言及したようなものですが『カルト』の物語は最強の霊能力者ネオの登場により終息へ向かい、同時にやがて来る壮大な戦いの片鱗を帯びていきます。
果たして、あびる優、岩佐真悠子、入来茉里の三人と霊能力者ネオたちのこの事件はどのように展開していくのか、世界の命運は!
そんなジャンル破壊のホラーモキュメンタリー『カルト』触れてみるのはいかがでしょう?
それではまた次回!
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