『viewers:1』その作品に込められた三つの文脈

SF

『viewers:1』第6回「リモートフィルムコンテスト」グランプリ作品

どうもこんにちは、えのきです。

最近記事を書けてないな〜となっていたのですが、先日Twitterを見ていたら凄い動画が流れてきました。

「GEMSTONEクリエイターズオーディション」
第6回「リモートフィルムコンテスト」というオーディションのグランプリ作品
『viewers:1』です。

「そういうのを発掘して紹介しろよ!」と言われるとぐうの音も出ないのですが、この短編映画がものすごい。
わずか二分ほどの映像でありながら、その時間に世界設定、登場人物の人柄、強いメッセージが込められています。
そしてなにより『リモート』という題材を『配信』という手法で描き出すその発想!
レビューもしていきますが、今回はネタバレを大前提の記事なので是非まずは一度見てみてください。損をする動画ではないと思います。

一応あらすじからいってみましょう。

『viewers:1』あらすじ

「どうも!どうもどうも!ぐっちゃんでーす!」
彼は旅をする。もう人と出会うことの出来なくなったこの世界を。
初めは144機あったはずの基地局ドローンも残りは3機だ。
彼はそのドローンを頼りに配信をし続ける。この世界を歩く様を。
ただ一人の視聴者に向けて彼は旅をして、その様を伝える。
朽ち果てたタワーマンション、釣りをしてもロボットの手しか釣れない海、残されたバッテリーと酒に喜びを見出す日々、一人酒を飲み眠る自分。
どこまでも続いていく道には猫も犬もいる。ただ、人だけがいない。
旅は続いていく。壊れてしまった世界の中で彼はただ歩いて、歩いて、歩いて、歩いていく。
いつしか時は過ぎる。
3機飛んでいた基地局ドローンももう残り一機だ。
「どうもー!この街も誰もいませんでしたねー!」
そんな言葉と共に歩く彼を待つのは果たして。

※ここからはネタバレでいきます。

さて、この映画三つ見方が出来ると私は考えています。

一つ目は純粋にぐっちゃんと名乗る彼とそれを見ている誰かが出会うまで物語
二つ目はぐっちゃんと名乗る彼とそれを見ている『私(たち)』の物語
三つ目は作り手と受け手の概念の物語です。

一つずつ説明していきます。
まず一つ目『ぐっちゃんと名乗る彼とそれを見ている誰かが出会うまで物語』
これはもう見たまんまですね。
ですが、それだけですますには惜しいのでその魅力をここで書いておきたいと思います。

この物語の力強さ、それはコロナ禍という現実の状況でありながら劇的な破滅を迎えた世界、ポストアポカリプスを描いていることだと思います。

この映像が出た企画はリモート制作という制約で、それを逆手にとったものです。人と人が関われない世界。

私は趣味で小説を書いているのでそういったことを趣味にしている方もTwitterのタイムラインで見かけるのですが、先日こんな話題を見ました。
「もう劇的な終わりってイメージできないよね。コロナでこれだけ世界がめちゃくちゃになっても緩やかに終わっていくというか」

何か世界を混乱に落とし込むようなことが起きても、どうしてもそこに日常は横たわる。
日常というものの弾力性はそれまでのイメージと違って想像以上に強い。
新型の感染症が流行してもある日急に感染者が全身から血を出して即死するわけではない
暴動が起きたとしても海の向こう側ではちょっとしたニュースとして流されてしまう。
どこまでも日常が続いていて、あるタイミングで急に「もう終わりです」となるのではない。白黒のつかない世界がある。

それに私も「確かになぁ」と感じつつ、同時に虚しさもありました。
そんなに想像力って弱いものなのか?
そもそも世界の終わりであったり、ポストアポカリプスものに魅力を覚えていた人たちは必ずしも現実の写鏡としてそれを作ろうとしていたのかな?
私はそんなことを考えていました。

でも『viewers:1』は違います。
コロナ禍でありながら、それによって出たリモート制作でありながらも世界の終わりとそこにそれでも生きている人を描いている。
1カット1カットに魅力的な設定が垣間見える描写で構成される映像はどこまでも私たちの住む現実とは違う「世界の終わり」を描き出しています。

空を飛ぶあの基地局ドローンはどういう経緯で飛ばされたんだろう?
どうして謎の巨大機械が街を壊しているだろう?
あの海を占拠している機械はなんなのだろう?
『ぐっちゃんと名乗る彼』はなぜこの世界で一人生きているのだろう?

その映像から連想させられるイメージは尽きることはありません。
彼の旅路の果てに、それまでも何度も発せられてきた「どうもー!」という過剰なほどの明るさに満ちた声ではない「ど、どうも」という素の言葉、
視聴者が見てきた『彼』のそれまでとは違う側面すら感じさせる終わり。

美しい、そう思います。

長く続くその旅路は果たして。
出演/撮影:橋口勇輝・監督/脚本/編集:針谷大吾・小林洋介
youtube動画より

これが一つ目の見方。
では二つ目です。

『viewers:1』はラストを除き、配信中という描き方がされています。
『ぐっちゃんと名乗る彼』の配信している動画を見ているという映像ですね。
タイトルの通り終始画面左上にはviewers:1と表示されています。
そしてこの一人の閲覧者の内面は一切描かれません。

最後、彼と視聴者が出会った瞬間ですら手元しか映らず、何を思っているかの断片すらありません。

しかし、それでもなおこのラストシーンは私の心を打ちます。
それは『ぐっちゃんと名乗る彼』を『私(たち)』は見続けていたから。
彼が空元気で「どうもー!」と言う様も、世界を歩いていく様も、わずかな発見に心を動かす様も、一人眠れず泣いている夜も。
全て見てきたから彼と出会いたいと思う、誰か出会って欲しいと思う、彼に希望があることを願っている。

だからこそ、本作のラストシーンは深く心に染み込みます。

そう、viewers:1とはこの映画を見ている『私(たち)』自身に他なりません。
彼を笑い、応援し、強く心を動かされるほどにラストシーンの情動は比例して動くようになります。
この物語は『今』を生きる私たち自身の物語でもあるのです。

これが二つ目の見方です。

そして三つ目。
作り手と受け手の物語。

私自身、こうしてムービーナーズさんで記事を書いていたり、趣味で小説を書いている(いや、映画監督などと同列に語るのは烏滸がましいのですが……)のですが、どれだけ真剣に考えて何かを考え、作り、発表したとしてもそれが受け手に受容されるか、そもそもそれを見てもらえるかはあまり関係がありません。
面白いものは必ず人目に触れられる。それは理想的ではありますが面白くても誰にも気付かれない作品はこの世にいくらでもあります。

この『viewers:1』ですらそうです。
この映画がバズる前、再生数は500程度だったそうです。
これほどまでに優れた短編映画だというのに、無料でどこでもインターネットさえばあればいつでも見れるはずなのに。
時間差でそれを見た人によって語られ、バズが起きましたがそのまま忘れ去られていた可能性はいくらでもあったはずです。
たとえ宣伝が行われる商業の作品ですらうまくマーケティングがフィットせず、埋もれていくこともいくらでもあります。

誰でも何かを発信できる。

それは今の時代の優れた点の一つで、多くの人の才能が示された一因ですがそれ故に過剰供給となり優れたものであっても忘れ去られてしまうことは絶対にあります。
それでも何かを作る人というのは作るわけです。

小説の話になってしまいますが、かつて『コンビニ人間』で芥川賞を受賞した村田沙耶香と先日『推し、燃ゆ』で芥川賞を受賞した宇佐見りんの二名の対談インタビューでは
村田沙耶香が「小説は「宗教」と似たようなものがある。」という自論を語ります。
この対談インタビューは小説についての話ですが、この世の誰かに向けて発信された全ての創作に通ずるところがあるように私は感じます。

届くかどうかもわからない。
でも、届いて欲しい。
それでも何かを作り出したい、人に向けて何かを発信したいという意思、あるいは願いは確かに形となってこの世に存在します。
誰かに、届くかもしれないことを考えて。

この思想は全てが終わってしまった世界を一人、誰かを求めて旅する『ぐっちゃんと名乗る彼』の願いと強烈に重なります。
配信という形式。自らの生き様を作品として『誰か』へ向けて発信し続けるということ。
そして永遠のような時間、返ってこないレスポンスの中でも歩みを止めないこと。

届いた瞬間はいつも唐突で、立ち尽くすことしかできない。
出演/撮影:橋口勇輝・監督/脚本/編集:針谷大吾・小林洋介
youtube動画より

それが届いた瞬間、現実とは思えない奇跡。
その奇跡の前で人は「どうもー!」などといった繕った自分ではなく、「ど、どうも」という剥き出しの素の言葉しか出せない感動。
ドラマチックに駆け寄る前に、その感動に呆然とするしかない心地。

そんな祈り、『viewers:1』を作り手と受け手の物語として描き出しています。

そしてこの『届いた』瞬間の描写、これは『ぐっちゃんと名乗る彼』を超えて『viewers:1』という物語自体と重なります。
繰り返しますがこの映画がバズる前、再生数は500程度だったそうです。

もちろん一人ではないけれど、この物語はそのまま消えていくかもしれなかった作品です。
それがある日、人目に触れ、語られ、爆発的な反響を呼び起こした。
今現在、再生数は500,000回を目前にしています。

届くかわからない、何かを作り発信する人の祈り。それが届いた瞬間の物語が『viewers:1』ではないでしょうか。

そしてこの見方をした時に、
一つ目の見方「ぐっちゃんと名乗る彼とそれを見ている誰かが出会うまで物語」
二つ目の見方「ぐっちゃんと名乗る彼とそれを見ている『私(たち)』の物語」
だけでは届かないメッセージ性が浮かび上がります。

コロナ禍という現在から、未来への希望です。
私たちは、人と出会うことが以前よりも格段にハードルの高くなった世界に生きています。
もちろん生活の中で大なり小なり人と出会うことはあるかもしれません。家族とは会っている人もいるかもしれません。
それでも、これまで出会ったことのない「誰か」と出会うことを減らした人はとても多い。そう思います。
このコロナ禍の後の世界がどうなるかはわかりません。

人と人が隔てられ、距離を保ったままの世界が続いていく可能性もいくらでもあります。
人と出会うこと、それ自体がリスクという認識の世界になるかもしれません。
もしかしたら、見知らぬ「誰か」と出会うことの出来る世界はもう終わってしまったのかもしれない。
何処にも繋がらない日々がただ続いていく世界。
それは『viewers:1』で描かれた世界そのものです。
でも、ラストで『ぐっちゃんと名乗る彼』は出会うことができた。『viewers:1』は人目に触れ、多くの人々に届き、作り手の祈りのようなものを受け取ることが出来た。

一つ目の見方にて記載した「現実の写鏡ではないポストアポカリプス」でありながら「今私たちの住む世界の未来の希望」を描き出している、
それが『viewers:1』がバズを呼び起こし、生み出された文脈ではないでしょうか?

もちろん私のこれまで書いてきた文脈はそれぞれどの文脈が絶対的に正しいわけでもない。
もしかするとこの三つの見方以外にも別の文脈すら見出せるかもしれないとも思います。
きっと人の数だけこの物語は存在します。そして別の解釈が生まれていく。
だからこそ、一人ではないこと、誰かと出会うことは美しい。

以上となります。

たった二分でありながら短編映画として凄まじい完成度の本作、一押しです。
実は見てから「と、とりあえず自分の考えを文章にまとめよう!」となったので人の今作への感想とかまだ見てないんですよね。
是非、皆さんも語ってみてほしいです。見てみたいので。

それではまた次回!
またお会いしましょう!

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